鳥の鳴き声は、「トッキョキョカキョク」はホトトギス、「チョットコイ、チョットコイ」はコジュケイというふうに、人語に置き換え、いわゆる「聞き做し」にすると覚えやすい。「葦切」は掲句にもあるように結構甲高く「鳴きたてる」鳥で、作者の耳には「執行猶予」と聞こえたのだろうが、そう言われれば、という程度で、聞く人によっては、そうは聞こえないかもしれない。俳句は大多数が共感する最大公約数を狙うと、どうしても無難な類想類句になってしまう。共感者は少ないかもしれないが、時には思い切って、自分独自の感覚を押し出す大胆さがないと、新しい句境を開くことはできない。「愛は怖れを遠くに追いやる」と聖書にあるが、惧れを乗り越えようとする気概こそが、実は俳句の魂なのだ。松木ヒサ子には他に/冬山の声なき声を聞く獣医/初蝶や半歩遅れて白き花嫁/糸瓜の水げらげら笑うほど溜まり/青田十町おもいきり風運び来る/火の鳥や積もれど積もれぼたん雪/どの子にも空の広がりシャボン玉/爆心地尺蠖虫が計りだす/震災を翼に秘めて去る燕/など。