「のなかに」のダブルミーニング的な意味の変容が、この句の「目玉」。事実は「大風」の「目のなか」に入って、風が和らいだその隙に、雨戸でも飛ばないように「五寸釘」を打っているの図なのだが、「大風の目のなかに打つ」と書かれると、「大風の目」に、直に「五寸釘」を打ちこむような錯覚が生まれ、「大風」が「あいたたた」と、たまりかねて逃げ出す、そんな景さえ浮かんでくるから愉快だ。俳諧の「諧」は「諧謔」の「諧」で、そもそもが「滑稽」を意味する。俳句は、人生の大ごとでさえ笑い飛ばすぐらいの、逞しい精神に裏打ちされた文芸なのだ。室谷光子には他に/しゃぼん玉ひとつひとつに窓がある/昏れそうで昏れぬ菜の花明りかな/末枯れの川いっぽんが生きている/減反の余白で揺れし秋ざくら/花明り百のたましひ出てあそぶ/西方の火種となりぬ彼岸花/湯冷ましのような空あり敗戦忌/など。