KUYOMI

2020年06月

「晩年」は「人生の終りのころ、または死ぬ前の数年」を指す。夭折する人もいるので、年齢は問わない。しかし、掲句の「晩年」には作者の自覚が反映されているので、余命宣告されたか、老いの「晩年」だろう。「晩年」の肉体や気力の衰えは、否応なく「死」を意識させる。来年どころか、明日生きているかさえ覚束ない。崖っぷち、後がない、それが「晩年」の意識だろう。いつお迎えが来てもいいように、「今日一日」を悔いなく生きる、できることはそれしかない。必然的に、やることの一つ一つに対し、思い入れが深くなる。これが最後の「日向ぼこ」かも知れない、と思うようになる。それを「晩年の煮つまる匂ひ」と言っているのではないか。ものが「煮つまる」と粘稠度が増し、味は自ずと濃くなる。「これが最後かもしれない」と思いながら桜を見たり、会話をしたり、「日向ぼこ」をしたりする時の気持ちは、明日も生きられる、来年も桜が見られると信じて疑わない人の思いとは、自ずと濃度に違いがある。「日向ぼこ」も漫然とするのではなく、五感全部を研ぎすまして味わうようになる。結果、若い時には気づけなかった「日向」の「匂い」が、濃く匂い立ったのだ。前田清子には他に/拳骨に花を持たせて桜かな/金縷梅や女という字土にかく/鳩尾を落ちて十一月の川/杜若雨の力の花ひらく/夏座敷大きな風を通しけり/黄連雀噂の主の来たりけり/水温む光よワルツでも踊ろう/決断は省略に似てサングラス/など。

新型コロナの騒ぎで明確になったのは、この地球の主はニンゲンではないということ。今まで如何に「ニンゲン中心主義」で物事を見てきたかということ。ニンゲンが分を超えて他の生物のテリトリーを冒すと、必ず手痛いしっぺ返しがあるということ。自然界はニンゲンの常識が通用しないところだということ。ニンゲンの知っていることより、知らないことの方が圧倒的に多いということ。私たちはよく理解し難い感覚の持ち主を「宇宙人」というが、そういう意味では動物も、「ぜんまい」などの植物も、細菌もアメーバもウイルスも、すべて「宇宙人」である。そしてUFOの存在をNASAも認めているように、多くの科学者、宇宙飛行士などは、地球人以外に、未確認の知的生命体=「宇宙人」が確実に存在するだろうと断言して憚らない。トルコのカッパドキアなど、世界にはいくつも地下都市があるが、人間でさえそのような都市が作れるのなら、「宇宙人」ならなおさらだろう。ニンゲンは電子顕微鏡でなければ見えないウイルスのような小さな存在のことでさえ、知ったのは高々この100年ほどのことである。しかも100年かかって知ったのはほんの上っ面だけで、本当のところは何も知ってはいない。だから、未だにウイルスを制御できず、翻弄されるばかりなのだ。「ぜんまい」は、殆どの人が見たり食べたりしたことがあるだろう。しかしだからといって「ぜんまい」を「知っている」ことにはならない。「土中」にはニンゲンの数を超える無数の生命体が犇めいている。スプーン一杯の土には、数十億の微生物や小動物が住んでおり、 地球上にいる生物のほとんどは、空でも地上でもなく、土の中に住んでいるのだ。そしてニンゲンが知っているのは、そのうちのごくごく一部である。地球の外だけが「宇宙」なのではない。地球の内部も、別な意味でもう一つの未知なる「宇宙」なのだ。前田清方には他に/だんまりの底にいのちの蜆かな/古稀の日を古式泳法にて泳ぐ/無花果やみんな無口の会議室/耳鳴りの耳かたむけて鮑焼く/風呂敷で挫折をつつみ五月闇/針千本呑まずに暮らし針供養/来信の切手切り取る文化の日/酉の市人に押されて人を押す/など。

「雁來紅(がんらいこう)」は「葉鶏頭」の別名。雁が渡ってくる頃に葉が紅く色付くので、こう呼ばれている。また老いて株が充実するにしたがい、葉が勢いのある大きなものになり、色も毒々しく派手になることから、老來少」(少は「若い」の意)とも呼ばれている。「解脱など思いもよらぬ」は、この老いて色呆けしたような姿から、出てきたものだろう。枯れるように老いて、煩悩から自ずと遠ざかる人もいれば、命ある限り、煩悩のまま生きるという人もいる。自然の懐は、「煩悩則菩提」で、その両者を容れられるほど深いのだ。本田幸信には他に/かたつむりも少し君につき合おう/日本語の崩されてゆく花ざくろ/落蟬にこだわりている白い時間/逢うまでの刻ゆるやかに青蜥蜴/半日の仏心うすれ夏あざみ/あをあをと鬼灯があり泌尿器科/被爆樹の茂りの中の阿修羅の手/など。

「満開の桜」に作者はどんな「怖い声」を「見た」のだろうか。「桜」が「満開」である期間は短い。漢詩「勧酒」の井伏鱒二の名訳「花に嵐の喩えもあるぞ さよならだけが人生だ」にも示されているように、あっという間に散ってしまう。人生の無常や死を象徴するものとして、小野小町などの歌にも詠まれ、特に戦時中、特別攻撃隊が「神風桜花特別攻撃隊」と命名され、国のため惜しみなく一命を捧げる精神が、「散る桜」の潔さと相俟って、美化称揚されてきた。戦争が終わり、当時の軍部の内実が明らかになるにつれ、侵略を正当化するため、巧妙な論法や嘘で固められた情報操作に、国民はただ踊らされていただけだったことも明らかになった。国や国民のためと言いながら、その実自身の権力の増大、影響力の強化にしか関心のない人たちの、まことしやかな論法に、疑うことを知らない国民はまんまと騙されてきたのだ。そういう歴史の経緯を経て、「桜」はただその美を愛でるだけの、単純な花ではなく、負の影の色濃い花になってしまった。日本人は「和」の精神を尊ぶその裏返しとして、同調圧力に弱い。作者が「満開の桜」に「見た」のも、もしかしたら「和」を盾にとった「同調」を強いる、そんな「声」だったのかもしれない。本田博子には他に/かげろうに騙されていて愉快なり/ラ・カンパネラ聴くうしろより春愁/天心に寒造りの声響くかな/雪しんしん古代の文字のやさしさよ/大砲の射程の中に蓄音機/梧桐やモダンジャズも猫も老い/暗算の少年に棲んでいる梟/など。

「蝉」ほど「夏が来た」と思わせるものはない。その夏を作者は「雲」の「純白期」だという。「雲も」とあるのは「蝉も」という意味だろう。「蝉」は夜に羽化する。闇に乗じるのは、もちろん捕食者の目に留まらないためだが、早朝森を散歩すると、木のそこここに、生まれたばかりの蝉がぶら下がっているのに出くわす。「蝉」の羽化したての翅は「白」い。それから美しい薄碧色へ、そして褐色に変わり、朝が来ると飛び立っていく。「雲も」とあるのは、「初蝉」を「聞いた」というより、もしかしたら羽化の現場を「見た」ということなのかもしれない。蝉は寒かったり暗かったりすると鳴かない。鳴くには光と温度が関係しており、熱帯夜など高温で、近くにコンビニやネオンなどがあり、夜でも明るいところでは夜でも鳴く。雲の色も、雲を透過したり雲に反射したりする太陽光の量によって決まる。多いほど白く見え、少ないほど黒ずんで見える。夏は気温が高く、光量も多い。「純白」の雲の出現率が、四季の中でも最も多い季節である。「初蝉」と夏雲を「白」という共通項、そして「光と温度」という共通項で捉えてみせた、発見の句である。本庄登志彦には他に/寝支度の金魚がひとつ泡を吐き/遠くまで松笠まろぶ初箒/ジーパンを逆さ吊りして冬うらら/四月馬鹿大嘘つきのひよこ売り/脳死論しろあぢさゐを遠巻きに/十薬のまだ見えてゐる夕餉かな/寒卵割るまん前に櫻島/消防車濡れて戻りぬ秋の暮/など。

「おとづれ」は「音連れ」であり、「訪れ」である。日本の神々は客神で、常在神ではない。普段はそこに居らず、音とともに、常世から訪れ、「やってくる」神である。つまり用が済めばさっさと「帰っていく」神でもある。言い換えれば、迎えられ、送られる神であり、折口信夫はその客神を、稀にやってくるので「マレビト」と呼んだ。どんな風にやってくるかというと、一本の「依代」のもとに、かすかな「気配」のようにやってくる。それを「影向(ようごう)」という。その「気配」を捉えるために作られたのが風鐸、寺社の軒の四隅に下がっている青銅製の鐘形風鈴である。それが転じて今の風鈴になった。「百日紅」は真夏に咲く花。少しの風でも零れやすい、儚げな花である。お盆に帰ってきた「亡父」を、かすかな風鈴の音と、散った「百日紅」の「気配」で知ったのだ。堀本 吟には他に/マンホール蓋開けたまま冬に入る/玻璃壜のうららに傾ぐ乳の河/花野行われは影から抜けだせず/薬剤をひとつぶ添えし月の宴/逆光に向きを変えたる裘(かわごろも)/はなたばのただよう瀬戸のくらげかな/脳内にさらりと牝馬肥えており/など。

「鳩」は一般的に「平和」の象徴である。その「鳩」に「横顔」を見せるということは、「男」というものは、負けても負けても「戦う」ことが好きで、「勝つか負けるか」には血道を上げても、そもそも「平和」なんぞにはさほど興味がなく、真っ正面から取り組もうとしない人種だということだろうか。確かに男の多くは、血を滾らせるファイトシーンに熱狂したい人種のように思える。産む性である女がいくら平和を希求しても、男たちが勝ち負けに拘る限り、この国に本当の意味で平和は来ない、そんな気もする。堀部節子には他に/マネキンのゆびさきにある春愁/我楽多市写楽の顎に冬の蠅/反日記事をホチキスが咬む三鬼の忌/触れ合うて傷ついており冬苺/玄関に春が来ているベビー靴/愛まだ信じる ジャンプで摘んだ青棗/ぼうたんに女の重心ふと揺らぐ/新宿は垂直の街初燕/など。

「麦蒔」は、北海道では8月下旬から9月中旬。11月中旬から12月上旬の九州とは、かなりずれがある。歳時記はその中間をとって、10月中旬から11月中旬の関東を基準にするので、初冬の季語になっている。季節の変化は気温と湿度の違いでもあるが、特に秋から冬にかけては空気が乾燥しやすい。「くちびるに微量の出血」は、その空気の乾燥がもたらしたものだろう。若い時と違い年をとると唇の弾力性が失われ、皺も深くなる。男性、しかも農夫はリップクリームなど塗らないだろうから、余計切れやすいのだ。「くちびる」が切れることと「麦蒔」に意外なつながりを発見した句である。堀之内長一には他に/白鳥がわが胸を蹴るあさぼらけ/夜の蟬徐々にざわざわ飛蚊症/嫁が君家中を緑が走る/老練なふらここ乗りのいる山国/巨石囲みてコスモスと女人つどえり/冬椿葬りのあとの白いおにぎり/原形は春蚕のような島でした/髭三日剃らず漂う初霞/など。

急な「夕立」を突いて行くときは、「顔」はどうしても俯きがちになり、急ぎ足になる。途中雨宿りできればいいが、急いでいて、それができない時は、そのまま濡れながら「駅」へ向かうことになる。もちろん髪の毛はびしょ濡れ。髪の毛の貼りついた顔は、我が顔ながら、見るに堪えない残念な有り様となる。それを「顔流失す」と表現した。失ったのは、もちろん夕立前の、「駅まで」濡れずに来るはずだった「顔」である。本来の自分の顔を失った、トホホな気分、その悲哀と「あはれ」を感じる場面は、文学に携わる者にとって、見逃してはならない絶好のチャンス。「転んでも、ただでは起きない」自己客観視の執念が、この俳諧味たっぷりの一句に結実した。堀之内勝衣には他に/冬帽子命こつんと卓に置く/月光の父の匂ひがインク壺/秋の蛇まなこの底を冷たくす/胃いたはる波の隙間が水仙花/花冷は絹の冷えもち船が出る/寒の雨駄菓子の色もこの世かな/大旱の十ぺん訪えばいのち赫し/蝉の骸拾ひて息の濁りけり/など。

「冬ざれ」は、草木が枯れ、景色が荒れて蕭然とした様。「喪に着く」は、人の死後、その親族が一定期間世を避けて、家に籠り身を慎むこと。文字通りの「冬ざれ」と心の「冬ざれ」、二重の意味が込められている気がする。亡くなった親族は作者にとって、それだけ存在感の大きな人だったのだろう。もしかしたら予期しない突然の死だったのかもしれない。亡くなってすぐの、気持ちの整理がなかなか付かない中、葬儀にまつわる諸々の手配や連絡、財産分与の話し合い、書類による数多の申請や手続き、やることが次から次へと押し寄せてきて、死者を悼む気持ちから程遠い時間が流れるばかり。しみじみと死者を悼む気持ちが湧いてくるのは、それらが一段落してから。葬儀にまつわる面倒を体験した人でなければ出てこない、実感の籠った「冬ざれ」である。堀越胡流には他に/陽炎の中なら嘘も許される/神木の影のなかなる三尺寝/歩かねば札所につかぬきりぎりす/紅葉は無口な樹よりはじまれり/霧深き日となり骨を掘り出しぬ/狐火を見し夜はははに逢いにに行く/月光の深きにいつか魚となる/など。

「秋景色」は、生命の翳りや衰亡の寂しさを匂わせる景色のこと。その一つに作者が挙げたのが「ゴキブリ」である。夏うちは猛々しいまでに飛び廻り、這い廻りしていたゴキブリ。その「飛翔」の際の「はらり」という音に、夏とは違う生命力の翳り、秋という季節の到来を敏感に感じ取ったのだ。ゴキブリの成虫の寿命は約6ヶ月。その間雌は15~20回産卵し、計300個ほどの卵を産む。作者の家も、ゴキブリの侵入を長年許してきたのかもしれない。そうでないと、「飛翔」の音のわずかな違いに気付けない。佇まいもそれなりに、時経た家のような気がする。「ゴキブリの飛翔」と合わせ、家それ自体も「秋景色」の一つなのだ。堀内一郎には他に/つつじからつつじへ歩く佛たち/やかなけりたつぷり使ひ年送る/天井の分だけ畳明易し/み佛はもとより薄着額の花/妹も酒ぐせ悪くクリスマス/天皇はややさびしげに初笑/はやばやと試着室から蝶になる/月下美人あるじ只今入院中/など。

「繭玉」は、紅白の餅を丸めて、柳や黒文字、水木などの枝に着けたもの。餅の重さで垂れ下がる様が稲穂に似ているので、豊作祈願としても作られ、家の内外に飾られる。花の少ない正月を、彩り華やかな「繭玉」で盛り立てようという、昔ながらの演出である。もちろんこれを作り飾るのは、女たちの仕事。飾り終わって、やれやれと思っていたところに、「用なき男」が来たのだ。用はないと言っても、正月にかこつけて、亭主と一杯やろうという魂胆は丸見え。無下に追い返すわけにもいかず、酒食の用意と接待で、女たちはまたぞろ立ち働く羽目に。有難迷惑な感じが「用なき」の一言に滲み出ていて、可笑しい。堀 敬子には他に/御神馬に言ひ寄つてみる春宵/沖朧数へなほして島殖やす/空蟬のまだ濡れてゐる夜明の木/虫の秋耳が鳴き出すほどひとり/雨音が弾音となり破蓮/冬暖か綺麗に割れて馬の尻/黄落の厩舎南瓜の馬車が出る/鶏舎抜け狐の背中傷だらけ/など。

愛妻家で知られる俳人折笠美秋の「ひかり野へ君なら蝶に乗れるだろう」を多分下敷にした句。掲句の作者は女性なので「君」は夫だろう。「風に向く君」の「君」はどうも画家らしいので、ついつい芸術家肌にありがちな逆風が多いのかもしれない。「青蛙」は周囲の環境に応じて体表の色を変え、緑色になったり茶色になったりする。多分彼女の夫も、今は様々な軋轢のもとにあるが、芸術家ならではの柔軟な見方、考え方が、いつかは周囲とうまくやるすべを会得するであろう、という期待と楽観が「なれる」である。世間と妥協せず、上手く軋轢を避けながら、しっかり自分の意は通す、「君なら」きっとそれができるよ、という「君」への信頼の応援歌なのだ。堀 節誉には他に/台風が過ぎ去り魚に成り切った/天の川第二関節まで届く/寒烏親指に力入れて死ぬ/渋柿の渋ぬけてゆく美学かな/飛ぶときは眠るときなり柳葉魚喰う/螢や明るい自死と思いたい/一本の杭を打ち込む天の川/こだわりの葡萄をもって敬礼す/など。

「さくら浮く夜空しずかに」と「しずかに背がはがれる」、「しずかに」が上にも下にも懸るよう工夫されている。おそらく夜桜を見に行き、酔い潰れたかして、桜の下に寝そべったのだろう。桜と夜空を見上げているうちに、よく見ようとしてなのか、ただ単に起き上がろうとしてなのか、上体を持ち上げた。それを「背がはがれる」と表現した。寝そべって起き上がるという誰もがやることを、誰もやらない仕方で表現する。そこに生まれる「新鮮な違和感」が詩だ。堀 葦男には他に/海を欲る輸送車こぼれつぐ棉花/縄より窶れて竜巻あそぶ砂礫の涯/若葉あらしに血をしごかれて広場めざす/花辛夷わが歯いくつか亡びつつ/ぎんなんのさみどりふたつ消さず酌む/夕さくら照るや少女のまた暴投/など。

「鬼門」という考えは、古代中国において紀元前400年~紀元前200年頃にかけて書き継がれた地理書「山海経」が原典で、鬼(邪気)が入ってくる不吉な方位とされている。一応「北東」とされているが、方角は相対的なものなので、どこから見るかで変わってくる。むかしは京都から見てだったが、掲句の「日本の鬼門」は、おそらく首都東京から見た北東、東北や北海道のある方角だろう。東北や北海道は、昔は蝦夷と呼ばれ、朝廷に服従しない、いわゆる「まつろわぬ民」だった。征夷大将軍の「夷」は蝦夷の夷であり、彼らは長い間武力征圧の対象とされ、虐げられてきた。加えて東北・北海道は冷害に遭いやすく、度々飢饉に見舞われたため、難を逃れたい思いは日本のどこより強かっただろう。今でこそ寒さに強い品種が改良され、一大米どころ、農業生産地になっているが、当時の農民たちの必死の思い、藁にもすがりたい苦肉の策が、「案山子」という難封じに結晶し、科学の時代の今でも残っているのである。細根 栞には他に/蛇打って打って棚田の水あふれ/鬼やんま太平洋の水叩く/叙事詩あり春夕焼の丘があり/蛍袋から青僧がぞろぞろ/空(くう)という重さ泰山木の花/白日の青葉木莵なら逢いにいく/美しき罠ひとむらの曼珠沙華/鳥渡るころか埴輪の泣くころか/など。

言葉遊びを思いっきり楽しんでいる句。俳句は軽いノリとアドリブ、即興、思いつきというけれど、これなど正にその典型だろう。要するに、人生は楽しんだもの勝ちなのだ。やたら人生を七面倒臭くして、眉間に皺を寄せて生きたがる人もいれば、ノリとアドリブで、七難を上手く躱して生きるタイプの人もいる。俳人に多いのは、たぶん圧倒的に後者だろう。自然に親しみ、自然をつぶさに観察し、自然とは何かを知るにつれて、努力だけではどうにもならないことがあることを知り、いい意味で諦めが着いてくるのだ。そして力まなくなる。自分の内心の欲求や声に素直に従うようになる。「なるようになるさ」の楽観・脱力人生になる。意に沿わないことはしなくなる。芭蕉が晩年目指した境地が「軽み」であることを、この作者は知っているのだ。俳句は、苦の多い人生を生き易くする、実は意外な妙薬なのである。細井啓司には他に/モジリアニから鼻風邪をうつされる/宝石泥棒は陽炎だったりして/格差社会めざし凍天飾りたてる/あちこちで脳が詰まっている躑躅/吊り革を握って十三枚の嬰児/石階に疵 肩失いてわが影ゆく/百合匂う地球は月を抱きにけり/など。

視点のマジック。遠近・大小が対比になっている。まるで「蜘蛛の囲」に「タンカー」が獲物のように引っかかっているようだ。「発見」は俳句の大事なモチーフだが、本質的な発見だけでなく、こんなちょっとした「おっ、面白い!」という発見も、俳人は見逃さない。物事の良し悪し、幸不幸は、その人の見方や解釈が決める。同じ見るなら、面白おかしく見たほうが、悲観的に見るよりずっと人生は楽しくなる。俳人に臍曲がりが多いのは、日々人とは違う角度からものを見るよう、自分を鍛えているせいかもしれない。星野恒彦には他に/少年の大靴駆けるすすき原/ストーブにもっとも遠く遺影かな/凍て空を赤く引っ掻きヘリコプター/換気孔より金管の音柿熟るる/影のない猫の立ち去るチューリップ/はるばると糸瓜の水を提げてきし/にはとりの池に落ちたる十三夜/など。

「梅雨に入る」と、そこらじゅう「音」だらけになる。おそらくそれと対置するものとして「無音をつめたガラス瓶」がある。また「ガラス瓶」は、多く「液体」を入れる。そこも「梅雨」と響き合っている。「無音をつめたガラス瓶」は、季語「梅雨」を引き立てる反対物として取り合わされているはずだから、「乾いた」空瓶の逆説的比喩表現だと推測できる。何も詰まっていない=無が詰まっている、という訳だ。「梅雨」と「空瓶」、全く異なる二者の間に「ちがい」があるのは当たり前だが、表面上の「ちがい」に惑わされず、底に通底する「おなじ」を見抜く目が、取り合せの妙を生み出している。星野一惠には他に/天の川今夜も舟が出ています/安息は蛍袋の中がいい/白玉の昼の底より浮きあがる/目薬をさして春野をあふれさす/満天の星を揺らしている植田/藤房を映して水が重くなる/八月の水から記憶溢れだす/神木のうしろはすでに枯れの音/など。

「動物園」に「貧血の」という修飾、もしくは形容を被せたところに、作者ならではの表現のオリジナリティーがある。「満月」が「しずまり」なので、皓皓と照っていたその光り方に徐々に陰りが見えはじめ、ややおぼろげになった満月なのだろう。「貧血」の症状の一つに、顔色が悪い、かったるい、眠気を催すなどがあるが、昼間とは違い、人のいない夜の動物園は生彩を欠く。その活気に欠けた様を「貧血」に擬えたのかもしれない。昼間活気のある所ほど、夜の貌の落差が激しい。普通の人は、昼間楽しめれば、閉園後のことなど全くと言っていいほど興味を持たない。開園中の雰囲気と閉園後の雰囲気の違い、それに興味を持つのは、好奇心旺盛な俳人ならではの性。人がほとんど興味を持たないところへも、好奇心が及ぶかどうかは、将来その人の句が尻すぼまりになるか、末広がりになるかの分かれ目になるような気がする。星野一郎には他に/ブランデーさらにコブラを足して呑む/ローソク消し過去を清算したつもり/殻の内ごうごうとしてかたつむり/弟は丘でボーンと鳴っている/脳卒中のためタンポポが敷いてある/雪みちは柩の幅があればいい/雪山は全盲である白痴である/など。

今どきは「焚火」に当たる機会がほとんど無いので、「足から神になる」を実感的に捉えるのが難しいかもしれない。キャンプファイヤーや「とんど焼」などで直に火に接してみると、身体の中で真っ先に温まってくるのは「足」である。日本の神観は独特で、八百万が神、つまりあらゆる自然現象を人格化して「神」と言っている。知っての通り、自然現象は人智を超えている。人智を超越しているから、神なのだ。近年科学が発達して、人体の不思議も少しづつ解明されるようになった。普段私たちは、自分も「神」の一人だと自覚してはいないが、紛れもなく人体という、人智を超えた叡智の塊を保有している。「焚火」に当たっていると、顔から温まりそうなのに、予想に反して身体の下部、「足」から温まってくる「不思議」。自分の体でありながら、自分の体の反応を予知できない。まさに人智を超えている。自分の体でありながら自分の意思や思惑をはるかに超えて自動制御する人体。正に「神」である。星永文夫には他に/きのこスープ飲む隣 戦争が来て坐る/ほら吹きがまた殖ゆ 五月の湿地帯/危険な書を積んで 石榴その上に/夕焼けを狩るため少年指鳴らす/落椿踏んでゲバラは裸足です/鯥五郎が夏至の歪みを食っている/蛸壺に眠る 晩年の逃避行/など。

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