KUYOMI

2019年06月

1991年、イタリア・オーストリアの国境にある溶けかかった氷河で男性のミイラが発見された。このミイラは約5000年前のもので、「アイスマン(エッツィ)」と名づけられ、今では最新の3D技術を使い、その顔や人体がそっくり復元されている。作者はおそらくこのニュースを聞くか読むかして、ミイラを仔細に調べる研究者の立場を想像し、句を作ったのだろう。もしくは実際展示されているミイラを見たのかもしれない。ミイラは氷河に閉じ込められていたので、研究も「冷房」の効いたところでなければ、たちまち腐敗してしまう。「冷房」という最新の文明の利器の中で、五千年前の人体と向き合うのはどんな気分だろう。ちょっと想像がつかない。復元モデルを見ると、立派な体格の猟師である。衣食住、全て自らの力で調達した人の、智慧と自信にあふれた顔と眼がそこにあった。モンゴル旅行から帰ってきた時、都会人が何とも頼りなく、ひ弱に見えたように、人任せ、機械任せの現代人の顔が、体が、急に貧弱に見えてきた。滝沢無人には他に/エジプトの秋風シンメトリーに吹く/部屋の中ホースが通り天高し/銀杏落葉われ等定年同期生/難聴のほほ笑んでゐる冬日向/鶏頭がついて行くなと叫んでる/蓑虫の貌出してゐる日本晴/水中に上目遣いのところてん/など。

蝉の羽化はまず背が割れることから始まる。その割れ方を「ひと太刀を浴び」と描写した。まさにそんな風な、直線的な割れ方をする。羽化は殆ど夜中に行われる。なので「朝が来る」ころには「空蟬」だけが残される。なぜ羽化が夜中なのかと言うと、羽化の時は鳥などの天的に襲われても、逃げようがないからだ。また昼間羽化すると、うっかり子供たちに触られたりする危険がある。触られたら最後、そこで羽化はストップ。それ以上先に進めない。だから夜闇に乗じて、できるだけ目立たない仕方で羽化する。蝉と言えど、ちゃんとそこは考え、頭を働かせているのだ。虫だからと言って、つい人間は軽く見がちだが、どっこい彼らは、人間がこの地上に誕生する遥か昔に生まれ、延々とその命を繋いできた、隠れた強者、敬意に値する命の猛者なのだ。瀧 春樹には他に/俺の柩を俺が担いで時雨けり/紫陽花の首斬り落す信長忌/地に深く火種を埋めてより桜/夢にまで出て追いつけぬ花野かな/心太雲の翳りが野を移る/折り鶴が翔んだよ梅が開いたよ/疑えばきりなく淋しいパンの耳/点鬼簿に探すわが名や暮の秋/など。

一瞬ぎょっとする。でもすぐ景は浮かんだ。青梅が生ってる梅の木に、鳥除けの目玉バルーンがぶら下がっている、ただそれだけの景なのだ。しかし数ある素材の中からこれだけを取り出し、「目玉が干してある」と表現することで、簡単に「異世界」が出現する。正に「言葉のマジック」!ぶら下がっているのを「干してある」と表現して、雨上がりの後の景であることも示唆している。この「示唆」の一言、そして「言葉」によって日常を「異世界」へワープさせる、それが俳句だ!外国は「はっきり言わなくちゃ解らない」のダイレクト文化。だが、日本の文化は、ダイレクトを野暮・無粋とする、間接表現をよしとする文化。はっきり言わないことで、思いっきり想像力を鍛え合う、それが日本の文化なのだ。俳句も「示唆」の文学、読心の「察する」文学、「言葉」の使い方ひとつで、瀕死の日常に清新な息を吹き込む、革新の文学なのだ。田川ひろしには他に/新緑へ溶け込むまでは影でいる/春の湖壺は口から闇を吐く/春の闇悩殺の紐が一本/脳天より硫黄の匂いルミナルエ/逃げ水へ釘を打ち込む陰陽師/秋暁のダリの時計が喋りだす/鬼灯を灯す嫣然として鬼火/熱帯夜効かぬくすりを呑んでみる/など。

「川の幅」に「好き」が付くのを、初めて見た。確かに言われてみると、あるかもしれない。滔々と広幅で穏やかな川が好きとか、逆に上流の岩を幾つも噛んでは乗り越える、ごうごうたる激流が好きとか、跳越せるぐらいの小さなせせらぎ、目高やゲンゴロウがいる澄んだ川が好きとか、好みの川幅は色々あるに違いない。季語「月見草」は本来栽培種で、花は純白、夕方咲き始め、朝になるとピンク色に萎む一夜花。しかし希少種なので、『角川俳句大歳時記』などでは、近縁の待宵草や大待宵草も「月見草」として載せている。昼咲きのピンク色の月見草もあるので厄介だ。掲句の「月見草」も川と取り合わせてあるので、おそらく待宵草か大待宵草だろう。「川幅」に「好き・嫌い」があるという自分の中の小さな発見。それが、この句を俳句にした。高森悦子には他に/下知状を携えてゆく夏の雲/天平の骨壺据わる月見かな/悩んでもいいさ机上の青林檎/水音も含みわらいの花曇り/半島に欠伸うつして枇杷熟れる/ひるがえるえいもわたしも寒明ける/涅槃図をころがり出たる枇杷の種/大声を出すもよろしき秋の山/など。

「春暁」なので、「天邪鬼」は、まだ人生始まったばかりのお子さんだろうか。眠っている時の「腹」は総体的に「やわらかい」が、子どものそれが一番「やわらかい」から、それで子ども、もしかしたらちょっと勘の強い赤子であることを示唆しようとしているのかもしれない。「春暁」は、寝不足気味の母親にとっては、何にも邪魔されず眠っていたい時間、誰にも起こされたくない時間である。子どもが泣くから、仕方なく起きたのだろう。乳を与えても、オムツを換えても、お腹をさすっても、イヤイヤをして泣き止まないのだ。「天邪鬼」は人の言うことを素直に聞かない。右と言えば左、パンと言えば御飯だという、頑固で片意地でホントやりにくい相手だ。だが、見方を変えると、しっかり自分を持っていて、易々と付和雷同しない、骨のある奴、とも言える。そういう一筋縄でいかない子どもと縁ができてしまった以上、親は鍛えられざるを得ない。あの手この手で折り合いをつけていく日々の始まりである。人間関係の単純ではない機微、それを教えてくれる有難い存在が「天邪鬼」なのだ。高室有子には他に/遺影近くに母と娘が氷菓食べ/夕立に地蔵半眼続きをり/友鮎としてひと日過ぎ誰も来ず/秋雨に赤味さしたる鉋屑/胡瓜揉風邪の女につくらせて/盆過ぎの富士ぼんやりと雲を待ち/ふしぶしをきしませて来る風邪の神/空缶の水をこぼして秋の虹/など。

「蟠踞」は、根を張って動かないこと。おそらく氷か雪のようなもので「龍宮」を作り、「活造り」の装飾として添えられてきたものだろう。刺身の身には当然目鼻はないから「のつぺらぼう」である。「白い龍宮」はいずれ溶けて消えてしまう。「活造り」も腹に収まって消えてしまう。どちらも「《虛體》」である。すべての存在は「根を張って動かない」様に見えても仮の存在、いっ時の間存在するだけの「《虛體》」なのだ。高原耕治には他に/うつばり傳ひや/孤絶の/鬼の/垂れ來る動悸|うなぞこに/簪一本/びんらんの/靈(たま)なびかせて|この旅/恐ろし/うみは うみ嚙み/そらは そら嚙み|假面のあらべすく/カルマの/素面も/熟れゆくに/など。

金さんが「酔えば」どうして朴さんが「さびしい」のだろう。多分金さんが酔いたいときは、心に何か欝々としたもの、酒でしか解消できないような蟠りがある時だからだ。同じ在日で苦労を共にしてきて、色々な差別や心ない言葉に傷つき、言い返すこともできず酒で憂さを紛らす、その気持ちが解り過ぎるくらい解るだけに、寂しくなってしまうのだ。「花八つ手」は、厳しい冬に地味な小花が寄り集まって咲く花である。二人はそのように、互いに励まし合って今日まで生きてきた、言ってみれば刎頚の友なのだ。友の悲しみは自分の悲しみ。そういう友がたった一人でもいる金さんは幸せである。高橋たねをには他に/すこし猫背アンダルシアの日雷/牛の舌生まの観念巻き込んだ/熟柿吸うコンプレックス火照るかな/人間の子を玉( ぎょく)と掴むや青葉木菟/老斑か豹紋か枇杷の種飛ばす/おなじ眸をして華人韓人川とんぼ/余所者を鶴痛烈に越えゆけり/など。

老年期の悲哀が言葉遊びに転換し、作者の老年期の生き方が透けて見える句。「ゆうやけ」は人生のたそがれ時の象徴。記憶力が徐々に怪しくなり、「これそれあれ」が頻発するようになる。長年一緒に連れ添ったからといって「これ」は解っても「あれそれ」が解るとは限らない。だからつい「どれ」と聞き返すことになる。「どれみれど」は二通りに読める。「どれどれ」と「みる」、もしくは、音階の「どれどれみれど」。老年期は記憶の断捨離期。生きていくのに必要不可欠な記憶だけが自ずから残る。言葉(会話)と食べることと排泄すること。それが命の基本、音階で言えば「どれみ」なのだ。記憶力が落ちても、想像力、創造力も減退するわけではない。むしろ余分な虚飾、知識が抜け落ちることで、逆に命の本質、大事なもの・ことが見えてくる時期でもある。嘆く暇があったら、それを笑いの種にし、大いに老いを、満月ではない「欠けた美」を楽しめばいいのだ。高橋京子には他に/藹藹とメロンの知能指数かな/そろかしこ御前様机下花吹雪/なりゆきで泥鰌の顔になっている/夢は枯野黒猫は記念切手に/正体は猿楽町の蝶だった/ななかまどおんきゃろりかそわかカナダ/芍薬やぶっきらぼうの棒はずす/など。

「なめくじ」がJR九州の配電盤に入り込みショートさせ、幾つもの電車を止めたとニュースになったが、基本「なめくじ」は雌雄同体、住所不定である。作者もそれを重々承知の上で「性別と現住所」を聞いている。つまり「なめくじ」の被害者として、あたかも加害者に職務質問している風を装って、「なめくじ」の特徴を際立たせているのだ。実に遊び心に溢れた、憎いテクニックである。俳句を作る時、つい特殊な場面をでっちあげようとしがちだが、「なめくじが出た!」、というごくありふれた日常茶飯事でも、ちょっと視点とお膳立てを変えるだけで、こんな風に詩的な俳句に仕立てることができる。俳句は畢竟物事をどんな視点から見るか、そのズラシの角度から物を言ってみることで生まれる新鮮な発見と認識の更新、それが決め手のような気がする。髙橋京子には他に/おかめひょっとこ踊る指先から枯れて/冬夕焼柱いっぽん足りないぞ/日がないちにち口動かしている桜/桃は桃ちがった線を引くしかない/襟足は鮎と同じ匂いがする/など。

動物の「白鳥」に対して「咲く」と言う植物の言葉を当てたのが、とにかく意外性があって、新鮮。「咲く」は、やや大振りで華のある白鳥には使えても、それ以外の鳥に使おうとすると、種類が限られてくるような気がする。言われてみると、あの羽の色といい、形や幅といい、大きな花びらのようだ。「数えていると」なので、おそらく一羽ではなく、何羽かが一度に羽を広げたのだろう。特大の白牡丹のように、羽ばたく様が見えるようだ。髙橋公子には他に/お祈り長し葉付き大根持ったまま/みんな他人で孑孑をかきまわす/ニトログリセリンの甘さ蛍の夜/狐のかみそり母をぐいぐい引っ張って/つばめ退屈で鏡屋定休日/じゃがいもに芽幾何学はむずかしい/霧流る壁にヘンリー・ムーアの手/など。

乾いた「影」と濡れた「影」の微妙な質感の違いを重量感の違いとして感受した、この感性の肌理細やかさ!こういうところに「ハッ」と気が付くのが俳人の眼。チコちゃんじゃないけど「ぼおーっと生きて」いたら、この違いをうかうか見過ごしてしまうに違いない。実際の「影」に「重さ」はないが、水に濡れた分濃くなるので、あたかも重くなったように感じる。それを「重さ」が「生れ」たと表現した。「影」に対して「重さ」、「重さ」に対し「生まれる」という表現、どちらもなかなか無い表現で、新鮮である。高橋和彌には他に/ボランテアたんぽぽ色になりたがる/現世に銭撒いて行く春の葬/大西日地蔵はいつも無一物/完成のあとは孤独の雪だるま/定年は淋しき自由いのこずち/駄菓子屋に走る小銭の汗かいて/手袋を噛んで外して義捐金/涅槃西風海割れる日の来る気配/など。

「金魚」の寿命は飼い方による。きちんと調べて、水のカルキ抜きや、水替えの時の水温合わせ、餌をやり過ぎない、濾過用フィルターの設置など、手抜きをせずに飼えば、10年以上、長いものは3、40年生きる。縁日の金魚すくいで掬った金魚がすぐ死ぬのは、ほとんどが無知なまま、狭いところで自己流に、餌やり過ぎで飼うためだ。人生の「持ち時間」も、おそらく似たようなものだろう。食事や運動や、自分の生活習慣に無頓着、無定見で過ごせば短くなる確率が高いだろうし、気持ち気を付ければ、それだけ長くなる可能性が大きい。暴飲暴食、運動不足など不摂生をし、何の根拠もない楽観主義からタカをくくる、そんな人に限って病気になってから慌てて後悔しがちである。「金魚」も「人間」も、取り扱い要注意の「いのち」、扱い方次第で寿命が大きく左右される「いのち」である。乱暴に扱えば、平均寿命の遥か手前で簡単に消えてしまう、はかない「いのち」なのだ。髙橋悦子には他に/あちこちにひとりぽっちが盆供養/枝豆を口に正論聞き流す/草笛を吹いている間は大丈夫/蜘蛛の囲やお父さんは違う家/鳥帰るアイウエオ順って不公平/風采はともかく秋の男かな/二番目に好きだと言われ葱坊主/大丈夫みんな死ねます鉦叩/など。

「蝶」は古来、死者の魂の象徴だった。作者の父親も、早くに亡くなったのだろう。子どもの齢が親の享年を超えると、立場が逆転したような、ある種特別な感慨を抱くらしい。父なのに自分の息子のような関心が芽生え、知りたくなるのだ。作者の父親も無口で、殆ど自分のことを語らなかったのだろう。息子も反抗期だったり、青春期特有の屈折を抱えたりして、家族といえど、お互い殆ど腹を割って話すことは無かったのではないだろうか。また父親は仕事で、息子は部活で、夫々朝早く出て夜遅く帰ってくる日常なら、なおさら会話は皆無に近かっただろう。高校卒業とともに家を出たりしたら、息子といえど、父がどんな生い立ちだったのか、どんな夢を持っていたのか、どんな青春時代を送り、どんな出会いや挫折があったのか、ほとんど友人や他人よりも知らないことが多いのではないか。自分が父親になって、また父親が思いがけず早くに亡くなって、ハタと気付くのだ。自分が父親のことを何も知らなかったこと、知ろうとしなかったことに。NHKの「ファミリーヒストリー」という番組を見ると、そのことが良く分かる。「近くて遠い他人」、それが家族、親、特に父なのだ。作者も遅まきながら、父のことを少しでも知りたいと思い、調べ始めたのだろう。父の残した日記、手紙、手帳、読んだ本など、それらを読むことが「父に会う旅」なのだ。髙野公一には他に/死んでいた百億年や青葉木菟/びー玉の中の銀河を転がしぬ/仮の世の仮の呼び名は寒雀/僕らみな死星のかけら芥子の花/冬の富士全重量を暮れ残す/前世もひとり見ていた冬落暉/母の忌はすきまだらけに辛夷咲く/死化粧を子供がのぞく残暑かな/など。

人体には九つの穴が開いている。と言うことは、外と繋がっているということ。口から肛門までを考えてみても、明らかに外と繋がっている。「蝉穴」は一見人体の外にあるが、その「穴」の中の「闇」も、闇に充満する空気を人間が呼吸することで、人体の闇と相互に繋がっている。植物も同じく、人間や動物の吐く二酸化炭素を吸って酸素を吐き、その酸素をまた人や動物が吸うことで、相互に繋がり合っている。要するに、すべての存在は呼吸及び食事、排泄をするための「穴」を通して、絶えず分子交換をし、切っても切れない、密接不離の関係にあるのだ。動植物を、また同じ人間である他者を手荒に扱うなら、そのしっぺ返しは、回り廻ってその人に必ず帰ってくる。すべての存在が繋がっており、一蓮托生であること、それを華厳経では「インドラ網」とか「重々帝網」というが、宮沢賢治や草間彌生など、多くの芸術家の作品の底には、この大前提が横たわっていることを忘れてはならない。禅における己事究明も、要は己と自然が、切れているのではなく一体であることを体感するためにある。西洋の人間優位の縦型の自然観とは全く違う、横一線並列の自然観が、俳句をはじめとする日本文化の根底にあるのだ。竹貫示虹には他に/カオスよりコスモス行きの初電車/學校を花びらたちの大脱走/冬の月四捨五入せし四を思ふ/セーターを着てやはらかになるからだ/麥秋のどこが燃えてもをかしくない/涅槃図へのつそり猫の悪源太/炎天を背骨の写真もち歩む/など。

夏の季語「青嵐」は、一般的には万緑を揺るがして吹き渡る、清涼爽快なやや南寄りの強い風と思われている。5月、6月ならそうは言えても、7月の「青嵐」は、ムンムン生ぬるく、むしろ熱風、とても清涼爽快とは言い難い。掲句の「青嵐」も、「昼を飼い殺しているだろう」とあるので、おそらく7月のそれだろう。「飼い殺す」には、「役に立たなくなった家畜を死ぬまで飼っておくこと。本人の能力を十分生かせないような地位や職場に置いたまま雇っておくこと」、という意味があるので、句意としては「風はあるにはあるが、なにせ蒸し暑くて、昼なのに何もできない、やる気が起きない、多分みんなもそんな感じなんじゃないの」、といったところか。中七と下五の間延びした字余りから、夏のうんざり、だらけた雰囲気が伝わってくる。高遠朱音には他に/蜻蛉孵化眉間のしわの深くなり/鮨詰めの私がひとり神無月/風花や行方不明の顔になる/終電を見送る足元から虹/夏燕ななめ45度の空/グロス塗る端から端まで熱帯夜/真空パックの膝を抱えている緑蔭/空蟬に真昼の海が残っている/など。

真っ暗な中で、遠くにいる誰かが「あ、銀河」、と言ったのだ。声の主が見えないので、あたかも「夜が口をひら」いたかのように感じ、それを少しばかり編集、脚色して、掲句に仕立て上げたのだ。「銀河」は「夜が口をひら」いた時の「声」なのだと言われると、何の根拠も裏付けもないのに、「銀河」の星の一つ一つが、「夜」という生き物が発した独り言もしくは唄の結晶のように見えてくるから不思議である。キーパンチャーの打つパンチカードからの連想だろうか。解読機があれば、何と言っているのか知りたくなってくる。「夜」を擬人化することで、見馴れた銀河が、ただの星の集まりではなく、一種の「声」の表現、記譜のように見えてくるから不思議だ。何光年も離れ、ただ眺めるだけだった存在が、俄かに私たち人間と同類であるかのように、身近で親しい存在になる。新しい顔を見せる。それが擬人化の効用である。俳句の種、モチーフはごく単純でも、ちょっと手を加えるだけで、詩的になり、広がりと奥深さをもった句になるという、お手本のような句。髙田弄山には他に/雑踏が歪んだ鏡に吸いこまれる/絵の具がかわくまで生きていた蝶/酔いしれて薔薇の上で風葬される/風ひらり水面が月のうらをみせる/風は弓なりの穂にやすむ翅/鏡を海にして月の溺死体が浮く/もう笑うなあばらが不気味だ/など。

聖書の創世記にあるノアの「方舟」は、その当時の動物の全種類を番(つがい)で容れた上に、食糧なども積み込んだので、巨大だった。長さ137メートル、幅23メートル、高さ13.7メートルの三階建て、容量にして貨物列車の標準車両522台分相当、天然アスファルトによる防水処理も万全だったらしい。そもそも方舟が作られたのは、当時の人類があまりに堕落していたため、神が怒って彼らを滅ぼそうと大洪水を計画、義人ノアとその家族、及び動物たちを生き延びさせようとしたためである。植物は食糧としては積み込まれたかも知れないが、種の保存目的で積み込まれたという記述はない。作者は、「植物はどうやって生き延びたのだろう?」と思ったのだろう。この当時「えんどう豆」があったかどうか知らないが、作者はえんどうの「莢」を見て、そこに小さな「方舟」を発見したのだ。実際植物の生命力は渋とい。2000年以上地中に眠っていた大賀蓮の種が芽吹いたり、最近噴火のあったハワイ島でも、冷えたマグマの上に早くも植物が芽を吹きだしている。聖書の記述でも、ノアが洪水が引いたかどうか知るために鳩を放ったところ、オリーブの枝を咥えてきたとあり、水中にいながら植物は生き延びたことが解る。約45億年前この地球ができた頃、まさに「創世」のころの地表は火山活動が活発で、地表面はマグマで煮えたぎっていた。到底生命など生れそうもない環境から、今の多様な動植物が溢れる地球になったのだ。高田節子には他に/春寒の轍が轍殖やしをり/地球儀ひとまわしパスタを茹でている/冬銀河トライアングル鳴りそうな/曼珠沙華ひとをあざむくやもしれず/許されることのさみしさ花槐/足ることを望まず素足のままでいる/にんげんをなんとなくみて河馬沈む/など。

2011年の3・11を踏まえた句。この句を読んで思い出したのは、今から50年以上前にレイチェル・カーソンが書いた、農薬や殺虫剤、化学肥料などの薬物汚染告発本『沈黙の春』。おそらく作者もこの本を読んだに違いない。そこで指摘されていたのは、二種類の「沈黙」。薬物汚染により鳥や虫や小動物が死んで生まれる「沈黙」と、資本主義の原理で動く薬品会社の儲け最優先のお先棒を担ぎ、戦争中の化学兵器開発の延長で、明らかに自然の生態系を壊し、人体の健康を損ねることが分かっている薬物を開発し続けた、科学者、研究者の自己保身から来る「沈黙」。奇しくも今朝のネットニュースでは、アメリカ南部のメキシコ湾における酸欠の海の拡大が報じられていた。原因は大雨や洪水によるミシシッピー川への窒素肥料や散布された薬剤の海への流出である。過栄養となり、藻が殖え過ぎ、藻が腐って酸素を消費、結果酸欠となる。魚類など移動できるものは近海からいなくなり、貝など移動できないものは死に絶え、漁業、養殖業に多大なダメージと損失を与えているのだという。近視眼的な金儲け主義がいかに人間を愚かにし、未来を危うくしていることか!原子力発電も、放射性廃棄物をどう処理するかの具体的な方策を持たないまま見切り発車して、「トイレの無いマンション」と揶揄された代物。このまま金儲け主義が横行すれば、地球の未来は無い。そのことに頭のいいはずの為政者も、経営者も、科学者も、危機意識を持っているようには見えない。気付いてはいても、それに目をつぶり、「沈黙」している、それが最大の問題である。彼らには金や出世や自分自身への愛はあっても、自分たちの子孫に対する愛は、これっぽっちも無いのだ。高桑婦美子には他に/臘梅の光りを食べる月日です/航跡は白い縫代母が来る/堕天使の翼色して白菜は/美談いつまで枯野の荼毘に間に合わぬ/退屈なゴリラで自由冬の園/泣くものに勝ってどうする茄子植える/探し物している家じゅう春の闇/正論で破蓮までを歩けるか/など。

細胞内のエネルギー工場「ミトコンドリア」が意識にのぼることなど、生物を齧ったか、NHKスペシャル「人体」を好んで見るかしない限り、なかなかないのではないだろうか。もとより最初の生命は自己増殖する単細胞生物。それが「異種」の単細胞生物を体内に取り込み、「共生」を始めたことで、単細胞生物が多細胞生物へと進化するパラダイムシフトが起きた。まさに、俳句で言うところの「取り合わせ」「二物衝撃」「異種配合」が起きたのだ。その宿主に寄生した方が「ミトコンドリア」である。「ミトコンドリア」の仕事はエネルギーを作ること。それまでもエネルギーは作ってはいたが、はなはだ効率の悪いものだった。ミトコンドリアはそれを飛躍的に増大させたのである。人体の40兆個ある細胞一つ一つにミトコンドリアが入っている。もちろん「骨」の細胞の中にもある。「動物」という言葉が示す通り、生きているということは「動く」ことでもある。動くためには動力源のエネルギーがいる。「永き日」は春の季語。それまで不活発だった人も動き出す、そういう活動的な季節だからこそ、人体のエネルギー生産工場「ミトコンドリア」を思い出したのだろう。人間は自力で生きているのではない。多くの眼に見えない細胞の働きに支えられて生きているのである。上手な俳句を作る以上に大事なのは、こういう目に見えない蔭の働きに目を留め、それに対する驚異と感謝を忘れないことかもしれない。俳句を作るのは、蝸牛、蟾蜍、蛍など、兼題が出されるその都度、それらの生態を調べることで、自然界の精妙な仕組みに精通し、自然の一部として生かされている自分、そこに思いが至るためのような気がする。それ無しに幾らテクニックを身に付け、いっ時の賞賛を得ても、所詮虚しいのではないだろうか。高木一惠には他に/鰹一本ノーネクタイの背広で来/終ひ湯にムーミンママが来る月夜/脱け殻は見えず噂のやまかがし/旧仮名は媚薬のごとし初御籤/漁火へふつと涼しき乳房かな/火山噴く生まれなかつた馬の子に/遠花火母には別のパスワード/など。

「光る枯草原」以外は、すべて擬音である。おそらく現地で聴いた音をそのまま並べ、例えば「こう」は、鳥の鳴き声、「はたり」は、大きめの虫が葉っぱに飛び乗った音、などなど、読者の自由な想像に任せるつもりの句なのだろう。擬音だけで、それが何かを明かさないことで、「きり」は何の音?「はたり」は何の音?「こう」は何の音?と、むしろ読者の想像は、一気に「光る枯草原」に飛ばざるを得ない。しかも「きり」「はたり」「こう」という音は、自分の経験の蔵を探っても、それと同じ音を発する物や場面が、易々とは見つかる音ではない。かといってまるで想像の歯が立たないわけでもない。わざとそういう微妙な音ばかり選んでいる。かくして読者は、何の音だろう?と、躍起になって謎を解きにかかり、想像を巡らさざるを得ないというわけだ。髙尾日出夫には他に/てのひらに残照のせたり水盗んだり/パンは枯原の微光放っている/一本の道を抱いて冬の村/冬の山河あの鳥は雑兵のはばたき/颱風せまる村は鋼の匂いに満ちて/照葉樹の森はさみしい馬のかた/眼差しの喪失深きやまざくら/など。

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