KUYOMI

2019年03月

「欠け」「欠け」の対句。マイナスイメージを重ねた、「わび」の句。「わび・さび」の「わび」は、「おわびする」の「わび」である。もてなすのに、普段使いの器で、あり合わせの物しか出せない、そのことを客に詫びる、それを「わび」と言う。何を出すかより、無いながら精一杯もてなそうとする、そのこころ、精神こそが大事だということだろう。日本人は古来完璧を嫌い、兼好法師がかの「徒然草」で「月は隈なきをのみ、見るものかは」と書いたように、不完全、欠けたものを愛でるという美意識があった。掲句では、まさにその「欠け」を二つ重ねて、典型的な日本の美を詠んでいる。「月」は年中あるので、季語は「五人囃子」つながりの「雛」。笛が欠けても捨てずに飾る家人の心には、その笛が無くなったことにまつわる家族の記憶が息づいており、人形と言えど魂が宿っているような気がして、捨てる気になれないでいるのだろう。「消費が美徳」という、軽薄な資本主義の風潮に、一人抗う気骨も感じ取れる。佐々木六戈には他に/花守にあらずば三日働かず/かたばみの汚れて雲の遠ざかる/稲妻を捕るでもなくて雑魚寝哉/声あれば美声の黴でありにけり/回りけり入道雲の裏口へ/蟷螂の斧青青と使用前/大夕焼絶筆は斯く暮れながら/水引の花が入つてゐる雫/など。  

「人の眼のどこか壊れている」、これは機能的に十全ではないという意味ではなく、全体像がはっきり見える昼を待たずに、「月夜」のように、情報が不十分、不明瞭なまま、知り得た一部を「一事が万事」とばかり拡大解釈し、早急に「あの人はこういう人」とレッテルを貼る、そういう人間の「視力」の限界を示唆した句である。どんな人にも視野の偏り、限界があり、それゆえ下された判断は、往々にして真相とズレる。そのズレが、更なる齟齬や誤解を増幅、増殖してゆく。むしろ人は、不正確な情報と誤解の中で暮らしていると思っていた方がいい。人間は情報を無意識に編集し、自分にとって都合のいいように解釈し、辻褄を合わせ、そうやってなんとか整合性を保っているので、狂わずに生きていけるらしい。言い換えれば、自分の見たいように見、聞きたいように聞いているということだ。おそらく作者も心ない中傷、誤解を受けるかしたのだろう。私たちが見ることができるのは、太陽の光が当たった月の一面だけである。月の裏側は、永遠に見ることは出来ない。人の思いや心の中も同様である。人間はもとより全知全能ではない。己の視力の限界を知る者は、他者に対しても決して居丈高に振る舞うことはない、そんな気がする。佐々木洋子には他に/滝描くなら音響のあるところ/猫に鈴まもなく梅雨がおとずれる/群集の真中に菖蒲立っており/郷愁を唾で飲み込む夜の蝶/薔薇の門あきます時間厳守あり/鳥渡る橋は再会するところ/次の世を見に行く小春日の電車/など。

「春」の本質を突いた、「切り傷に血の盛り上がるように」という比喩が出色、なおかつ説得力がある。地球が、大地が、生命力にあふれた、生きた体であることを言い当てているからだ。冬枯れてはいても、その地下内部には、脈々と命が息づき、鼓動している。春の訪れは、草や木の芽吹きによって実感することが多いが、地面や枝を破って出てくるそれを、「切り傷に血の盛り上がるように」と表現した。また「春」は、ことに2011年3月11日以降、必ずしも手放しで喜べる季節ではなくなってしまった。この季節になるたびに、当時の記憶がよみがえり、文字通り心の古傷から痛みと共に血が噴き出す、そんな思いをする人も増えたのではないか。学校でいじめに遭っている人にとっても、同様に新学期の始まりは、恐怖の始まりでもあるだろう。本来は希望にあふれ、生命力の大いなる発露と可能性を感じさせる、喜びの季節だったのに、複雑な気分で迎えなければならない、そんな季節になってしまった。山川草木鳥獣虫魚、八百万を神とみなし、仏性、分け御霊をもつ有情のものとして人間と同じように尊んできた日本人。再び春を喜びの季節として迎えられる時が、果たして来るのだろうか。佐々木とみ子には他に/雪降ってそこは異界の覗き窓/てのひらに谷底ありぬ雪ばんば/骨に咲く花もあるべし帰り花/鬱の日の花咲蟹を神としぬ/ランプよりくらい蛍火山を越す/寝かされた子の目のような金目鯛/春暁の太陽はまだ砂の中/など。

季語は無いが、おそらく「昼寝」(夏の季語)の「寝姿」だろう。「この糞爺い」と言われるだけあって、その「寝姿」も、見てくれや、傍目など気にせぬ「野武士」さながら。眠くなればそこがどこだろうと、ものの数分で熟睡モード。大の字に腕を広げ、口をかっと開け、豪快にいびきもかいている、そんな野性味あふれる寝姿が浮かぶ。おそらく家長としてはやや繊細さに欠ける、昔ながらの頑固おやじ、自分のやり方を声の大きさで強引に押し通し、何が何でも勝ちに行くワンマンタイプ、そんな気がする。作者も息子として長年腹に溜めてきたのだろう。愛憎と敬侮半ばの、複雑な感情が読み取れる。佐々木昇一には他に/ドアホンを押せば夏山から谺/子をあやす日傘くるくる目くるくる/木の芽時昔は他人いまは妻/残雪の遠山見える末席から/炎天や好球必打生者必滅/こうるさい姑を茸山に据え/初夏や趣向の同じ引出物/涼しくて痒くてガッツポーズかな/など。

「考える人」と「桜」ですぐ浮かんだのは、桜の名所上野公園である。上野公園の国立西洋美術館には、有名なロダンの彫刻「考える人」があるからだ。「考える人」のレプリカは、ここ以外にも世界中にあるが、もともとは「地獄の門」という彫刻の一部である。「人間はひとくきの葦にすぎない。自然の中で 最も弱いものである。だが、それは考える葦である」と言ったのはパスカルだ。おそらく「自然の中で 最も弱いものである」からこそ、「考える」機能が発達したのかもしれない。ポジティブにしろネガティブにしろ、人は考える。どう「考える」かが、気分やその後の運命まで左右する。ネガティブ思考を止めることができなくなり、過度な脳疲労から鬱病を発症する人も増えてきた。思考に振り回される人間。そのうち「考える」こと自体を疑問視し、思考停止、「考えない」方法まで案出されるようになってきた。桜の咲くころは、人生の転機と重なる。人生を、できれば地獄ではなく天国に少しでも近づけたいというのが人情。かくして、掲句の如く「考える人が無数に桜咲く」のだ。佐々木耕之介には他に/戦爭を知っている海泳ぐなり/水も木も人間もゆれ秋始まる/白桃をすすりざわめく夜がある/十一月の街淡白に歩きけり/唇の謀叛寒椿落ちにけり/もり上がる記憶を崩すかき氷大枯野に四隅がありて安堵する/梅干して仏の顔に近づきぬ/など。

「かげろう」は、日光により温められた地面とその上の空気の層の間に、温度差、濃度差が生じ、結果そこを通る光の屈折にむらが生じるため、景色が揺らいで見える現象。「ふるさとへきて」「かげろうになっている」とは、他郷に暮らす作者が、久しぶりに帰ってきた「ふるさと」で感じた彼我の意識の温度差、屈折感、気持ちの上での揺らぎ、それをこう表現したのだろう。この違和感は、故郷を離れ住む人なら、帰郷の度、もしくは一度は経験したことがあるのではないか。自分も「ふるさと」も、昔のままではいられない。時の経過とともに、不可逆的に変わっていく。それが自然の摂理だし、それを止めることは誰にもできない。記憶の中の故郷が消えていくのは、自分の依ってたつ土台、過去、すなわち自分の存在の根幹が揺らぐようで、せつない。「ふるさと」が、時間経過とともに、単なる懐かしさや安らぎの場ではなくなっていく、微妙な人間心理の変質を捉えて秀逸。佐々木克子には他に/目配せをさらってゆきし大雪崩/しあわせのふりしてくずすかき氷/雁木市海鳴りばかり通らせる/鮭打ちし棒夕闇をしたたらす/釉薬のどこの桜とまじわれる/冬花火山は退屈しきってる/たましいの青ざめるまで水を打つ/など。

「梅雨蝶」は梅雨の晴れ間に飛ぶ蝶のこと。「手鏡を揺らし」で浮かんだのは、昔よくやった、人の顔めがけて光を反射させ、眩しがらせるという悪戯。作者も「蝶」の複眼めがけて、手鏡で光を反射させたのだろうか。あるいは、じっと止まっている蝶を、手鏡を揺らすことで、飛びたたせ、止ったらまた飛びたたせを繰り返したのかもしれない。「一人ぼっち同士、一緒に遊ぼうよ」、そんな感じが「遊ばせる」から伝わってくる。いずれにしても、こんな遊びをするのは、病臥して暇を持て余しているせいかもしれない。上半身さえ起こすことができない中で、自由にどこへでも行ける蝶と遊んでいる時だけは、ともすれば悲観的になりがちな自分を忘れられる。ちょうど「梅雨の晴れ間」のように。佐々木英子には他に/海鼠突くいざなぎいざなみ皇系論/美男かづらこの文届けと潜りけり/葬列に花柄の傘走り梅雨/行けど無人行けど無音の麦の秋/詫び状を書き忘れをり終戦日/文科理科わたしは夢科初詣/麦秋や転んで起きて逢ひたくて/など。

「春キャベツ」を切る音「ざくざく」に、「戦争が覗いている」と感受した作者には、「ざくざく」は行進する兵隊の足音にでも聞こえたのだろうか。戦争の種は、なにげない日常の中に胚胎することを嗅ぎ取ったのかもしれない。平和の絶対的な基礎の第一は「自分自身との平和な関係」である。物事の両面を見る代わりに、欠点という一面だけを見て、それを判断の基準にする人がいる。その人は自分の欠点にばかり目が留まるので、当然ながら自分を好きになれない。自分自身を受け容れることもできない。その偏見癖は、自分だけでなく他の人やあらゆるもの・ことに及ぶ。結果、不平不満の塊になる。その捌け口として、自分や他者を攻撃するようになる。戦争も、自国の利益だけを優先する偏った見方から生まれる。攻撃される側の気持ち、不利益など考えもしない。かように物の見方が一方に偏ると、戦争が勃発する。物事を、人を、自分をどう見るかは、決して小さな問題ではないのだ。笹岡素子には他に/冬の陽は二人の距離とほぼ同じ/凍裂音浅い眠りのあちらがわ/太鼓打つ少年足から陽炎えり/木の芽晴れ軽いリズムの時計である/雪浄土じょんがら節の果てるまじ/木蓮の蕾宇宙飛行士の眠り/桜の実カノンコードが運んでいく/など。

「情念」と「合歓」の花の取り合わせ。取り合わせは、対照的な二者を共通項で結ぶ俳句ならではのテクニックだが、この両者にはどんな「ちがい」と「おなじ」があるのだろう。「情念」とは、感情が刺激されて生ずる想念、理性では抑えることのできない悲・喜・愛・憎・欲などの強い感情のこと。狭義の感情や情動と区別され、激情を意味する。その「情念」に「窓」があるのだという。確かに激情は心の中に溜まって、一気に噴き出す。「合歓」の花も、ぽつぽつというより、一斉に咲く。「合歓」の花の花言葉は「歓喜・繊細・夢想・安らぎ」。「情念」とは真反対である。激しいものと、穏やかなもの、目に見えない、色で喩えれば黒々とした激情と、眼に見える淡いピンクの合歓の花。互いが互いを引き立て合う、まさに正攻法の取り合わせである。「情念の窓」から見える「合歓」の花、その優しげな風情に、さしもの激情も鎮静していったのかもしれない。佐孝石画には他に/古時計ぼろんと海が剥落す/目を開けて夜の新樹が泣いていた/まなうらも臓腑のひとつ夕焼ける/冬の野の落下速度を見ておりぬ/新樹等は空を歩いていたのです/白鳥という笑わない母である/放課後のめまいのような冬木かな/など。

「猫」は物言わぬから、相談しても助言をくれるわけでなし、こちらが一方的に喋るだけに終わる。そこがいいのだ。相談者は只、鬱憤を吐きだせさえすればいい。吐きだすことには、それまで見えていなかったものが見えてくる、そういう効用がある。自力解決の糸口を掴むきっかけになるのだ。猫になら、こんなことを言ったらどう思われるだろうか、などと要らない気を遣う必要もない。人間のカウンセラーより、余程人の心をほぐし、緊張を解き、心の扉を開くのに長けている。「猫」は自分の衝動を抑えることはしない。したいと思えばするし、したくないと思えばしない、実に自分の衝動に忠実、素直だ。飼い主といえど、その顔色を窺うことはない。一方人はといえば、絶えず他者の顔色や反応を窺い、要するに姑息で計算高い。自分の評判を気遣うばかりに、自分の気持ちや衝動になかなか従えない。むしろそれを殺して、八方円満、波風の立たない、安全第一の「いいひと」を演じることを選ぶ。いかにもセコく、いじましい。猫は、それら人間のいわゆる「煩悩」を超越している。高いお金を出して誰かに相談するより、よっぽど有能、有効である。悩み事がある「秋」を「うららか」に転じることができるだろう。櫻木美保子には他に/みずいろの九月の空に指紋あり/電話ボックス寒夕焼が先にいる/山笑う象もうぶ毛を持っている/体ごといつか出てゆく木下闇/雨雲の生れはじめは蝌蚪の紐/さざなみのぜんぶが鱗春の川/猫のあしあとが空までつづく春/偵察衛星大根が煮くずれる/など。

「掛け替へる暦のやうに生きし」は「し」が過去形なので「生きた」になる。つまりこの「奴」というのは故人、おそらく最近亡くなった人のことだろう。「人」ではなく「奴」という言葉を使っているところをみると、作者とこの故人は、気心の知れた、遠慮のない関係だったことが解る。暦を掛け替えるのは、大晦日か元旦。やることをやり切り、思い残すことなく、丁度キリのいいところであの世へ旅立ったということなのだろう。「奴」と言える、親友もしくは伴侶が持てたことは幸いである。誰もがいつかは必ず死ぬ。死を後顧の憂いなく迎えるのは理想だが、そのためにはいつ死んでもいいように、一日一日悔いなく生きる必要がある。おそらくこの「奴」も、今日があたかも最期の日であるかのように、日々を生きた人だったのだろう。坂本敏子には他に/はらわたがないばつかりに凧/オムレツの腰がきまらぬ涅槃西風/亀が鳴くまで水たまりのままでいい/約束がちぎれて白いゆりかもめ/薔薇ばらばら一寸の虫鳴きました/蛍火の奥で扉の開く音/退屈がせつぱつまつた石榴の実/など。

「三味線」と「雪崩」を「音」でつないでの取り合わせている。「太棹」は民謡の津軽三味線や、文楽で使われる「太棹三味線」のこと。三味線には「太棹」「中棹」「細棹」があり、中でも「太棹」は深く重みのある音色で、音量もあり、迫力ある演奏ができる。雪崩は、日射しが強くなり、積もった雪が緩むときに起きやすい。「遠雪崩」の音が、あたかも「太陽」が「太棹」三味線を「乱調子」で弾いているように聞こえたのだろう。詩は、異なる二者を共通項でつなげるときに発生する。「雪崩のこの音は何かに似ている。そうだ!太棹三味線の乱調子だ!」、多分こんな感じでこの句もできたに違いない。詩人は、「ちがい」のなかに「おなじ」を見つけるのが得意だ。相手と自分の「ちがい」に目を留めるか、それとも「おなじ」に目を留めるか。それによって人生の質や展開が大きく影響を受ける、そんな気がする。坂本蒼郷には他に/少し老いたり蘭鋳の口を覗き/屋根石も重文指定閑古鳥/樹を倒す雪崩の音より豪快/難民の眸をして駝鳥は汚れおり/恐竜展猫背のわたしに雪が降る/僕らの十月花嫁を見つツルハシ振る/防霜の火へ家々の神がくる/クリオネと語り合うごと粥すする/など。

「ひろって」なのでこの「紅椿」は落椿である。落椿は朽ちゆくもの、それを「胸の火種とす」、つまり、何かが始まるきっかけにするという。破壊と創造、生と死は永遠に循環する。「おわり」はまた「はじまり」でもある。身近な人の死に接して自らの生き方を見直す人もいるだろう。新しい自分に出会うために、古い自分とさよならすることも、創造の上では欠かせない。画家にしろ小説家にしろ書家にしろ、初学のころは、ひたすらたくさんの先人の模倣をし、その方法を盗む。そうやって自分独自のスタイルを編み出す。俳人であり画家でもあった蕪村の絵などは、その典型である。実に色々な描き方をしていて、これが同一人物が描いたものかと疑うくらいバラエティに富んでいる。最初から自分のスタイルに拘っていたら、ここまで多様な描法は生まれなかっただろう。自分の中にこんな一面もあったのか!と、自分で自分に驚くには、今の自分のスタイルに拘っていたのでは、とうてい出会えない。俳句も、只作る一辺倒だと、自己模倣に終わってしまい、遠からず行き詰まる。先人の句を読み、その発想や、スタイルに刺激を受けて、自分自身の句をリフレッシュし、更新する。それを続けていくうちに、自ずから自分自身の文体、スタイルが確立され行く、そんな気がする。阪本 彩には他に/星採りに登る夜長の縄梯子/石投げて九月の湖の答え聴く/ユトリロの壁塗り替える寒夕焼/凌霄がひそと通している電流/吾亦紅ならべ音階拾う風/露草は小人のためのインク壺/波音は湖の心音浮寝鳥/花卍(まんじ)渡れば戻れぬ橋のある/など。

「平家村」は平家の落人部落のこと。「落人」とは、一の谷の合戦、屋島の合戦、壇ノ浦の合戦、いわゆる源平合戦で、源氏に連戦連敗した平家の一門もしくは平家に加担した者たちで、追っ手を逃れ落ち延びた者たちを指す。平家の落人部落の多くは、山の奥深くや離れ島や孤島にあり、北海道を除く東北から沖縄まで広く確認されている。蛙なら単独行動も可なので、人目を避けることもできるが、蝌蚪(おたまじゃくし)は水中を出ることができない上に、集団で群れるので、どうしても人目に立ってしまう。「逃げも隠れも」する人間と、同じ生存競争のさ中にあって「逃げも隠れもしない」蝌蚪、果たしてどちらが潔いか、と暗に問われているようだ。坂田直彦には他に/フラココを止めて小さな嘘を言う/定年とは妻と落花を浴びること/小さくなった母よ雪掻きなどするな/案内板読むは清水を飲んでから/待ち合わす蟬王国の端借りて/御座の間のどんでん返し押せば秋/春陽のほかは立入禁止工場跡/など。

「どこか違う」、この違和感一つが俳句の種になる。誰かと「電話」で話していて、その話の内容が文字通りの「枯野」ではなく、相手の生活または心の荒廃、貧しさを連想させる、愚痴や不満など寒々しい内容だったのだろう。それを「電話の向うにある枯野」と表現している。俳句をやっていると、徐々に世間一般の見方とは違う角度から物事を見、解釈する、いわゆる複眼思考になる。当り前だったものが当たり前でなくなり、「ありがたい!」という感情が次第に増えてくる。それまで不満や愚痴の元になっていたものが、さほどでなくなる。なぜか?自然が「多様」であり、従って人間も「多様」なのが自然、と思えるからだ。他者と自分が「違っているのが当たり前」なので、他者に自分と同じように感じ、同じように反応することを、求めることも、期待することも無くなる。相手が自分の期待通りの反応を示さないからといって、それをとやかく言うことはない。不平不満や愚痴の根底には、他者が自分の期待通りに動き、反応してくれない、裏返すと「他者とはいえ、自分と同じように感じ、自分と同じように反応し、自分と同じように行動しなければならない」という、「反自然」の「自己中心的」「画一主義」的人間観がある。俳句の効用は、「自然」に日ごろから親しみ、自然から学ぶことで、考え方、生き方がより「自然」に近づいていくことにある。自然は無理がない、しかも楽である。俳句の何たるかがしっかり身に付いている本物の俳人は、おそらく気分はいつも「花野」のような気がする。早乙女文子には他に/ゆったりと生かされイルカ生き地獄/花野道聖女B面般若面/デフォルメの蛇の集まる酉の市/地獄への近道もある青葉径/闇のなか谺のように花の声/新緑の湖が奏でる無絃琴/指先から劣化はじまる青葉闇/杉の花金泥経を封じ込む/など。

「穴まどい」は、本来なら「蛇穴に入る」晩秋、秋の彼岸頃、蛇がどこからともなく集まってきて、一つ穴の中で集団で体を絡ませ合って冬眠する時期に、穴に入ろうとせず、外を未練気にうろつく蛇を指す。「今日が明日でもよい立場」とは、定年退職して、毎日が日曜日、今日のことを今日済まさねばならないという、切迫感とは無縁の日常を送っている作者が、自嘲を込めて自らを穴まどいの蛇に喩えたもの。蛇たちも実際かなりアバウトで、秋の彼岸もだいぶ過ぎてから穴に入ることの方が多い。作者も、形は退職したけれど、まだまだこの世に未練があり、隠居するには早いと感じているのだろう。そうは思うものの、さしあたって何かをしようという気持ちにもなれない。退職直後の、まだその「立場」、生活リズムに慣れていない微妙に揺らぐ心、それをうまく「穴まどい」と絡ませて詠んでいる。温暖化で、本州でも蛇の冬眠は遅くなっているらしい。定年とはいえ、まだまだやる気、元気とも現役時代のままという人も多い。だから余計に時間と体力を持て余すのだが、仕事という足かせが外れた今、時間に糸目を付けず、思いっきり自分のやりたいことをやって、悔いなく「冬眠」の穴に入ってほしいものだ。佐伯虎杖には他に/とんとんと話を運ぶ秋の雲/にんげんに疲れの出でしこぼれ萩/ごめんよ花野尿なかなか止まらない/曼珠沙華当分素足でいるとする/角があるから曲がるそこから春の道/どの山も眠りつづけるかも知れぬ/赤とんぼ紙になるまで降りて来ず/など。

無季、自由律の句。『ユメル』はタカラトミーアーツの喋る人形。子どもの遊び相手というより、認知症予防、独居老人の話し相手に、息子、娘からのプレゼントとしてよく売れているらしい。もしかしたら作者も贈られた一人なのかもしれない。認知症の原因の一つとして、会話不足がある。孫なら自我があるので、なかなか祖父母の思い通りにならないが、お喋り人形ならその心配はない。しかも話しかけているうちに、会話も進化するらしい。『ユメル』は、どんな言葉も受け止める「傾聴」の達人だ。「傾聴」の極意は、ただただ聴くこと。相手に話させること。話しながら話者は自分で自分の答を見つけていく。答えはその人自身の中にある。それを引き出すのが、話して、話して、話すことなのだ。人はみな神の分身である。というより、日本的神観では、有機物も、無機物も、有情、無情問わず、すべてが神の分身、仮の姿である。したがって「性別」も仮のものに過ぎない。今生は男でも、前世は女であったかもしれない。両性具有の観音像が示すように、仏性そのものには、本来男女の性別はない。「性別不詳」なのだ。「ユメル」をただの人形と見るか、それとも神の分身と見るか、その違いはおそらくとてつもなく大きい。さいとうかぜおには他に/四月馬鹿精神科医の医師誤診/山手線の絵車体 ローンどうしよう/葉ざくらや神隠しに遇うつのかくし/都電荒川線を太陽が 歩く/みんなが鳥になる空の碧さへ切手貼る/力石の上で宿り木葉を落とす/など。

「梅雨深し」と「白墨減らす化学式」のいわゆる「取り合わせ」。両者の「対立項」と「共通項」を探ってみる。まず「対立項」としては、「室外:室内」、(梅雨と白墨の質感&梅雨の情緒と化学式の情緒)の「湿:乾」、雨がしとしと降る「湿った」音と白墨が黒板の上を走る「乾いた」音、「音の質感」も対比になっている。「(雨量)増:減(白墨)」の対比もある。「共通項」としてはどちらも「降る」。雨はもちろん「降る」が、白墨も粉となって「降る」。景としては梅雨の日の化学の授業。化学の実験は好き、という人は多い。しかし授業で黒板に書かれた化学式をノートに書き写すのは、試験に出るから仕方なくというのが本音で、退屈だ、厭きるという人も多い。「梅雨」も「深し」までなると、さすがに室内に閉じ籠りがち、退屈で厭きる、というのも共通する感情だ。世界は陰と陽の対立概念で出来ている。17音という小さな器に二つの対立概念を盛り込み、世界の組成を具現化し、象徴する、それが「取り合わせ」俳句の極意である。齊藤泥雪には他に/あけぼのの霧がはなるる鷺の丈/ねぷた小屋前の踏板疲れをり/二夜ほど機嫌よろしき螢かご/卒業の列が過ぎゆく大鏡/草原に溺れてゐたり虹の脚/地球儀に帽子被せる夏休み/外灯のどこかで逸れし雪女/捨て傘の骨生きてゐる十二月/など。

「日蝕」は、太陽と地球の間に月が入り、月が太陽の光を遮ることで起きる。太陽を背のいわゆる逆光のせいで、月は黒い影として太陽を侵食する。ギリシャ神話、エジプト神話などでは、太陽は男神、月は女神のシンボルだが、日本は逆で、太陽は天照大神で女神、月は月読命や桂男など男神に擬えられている。平塚雷鳥が「元始、女性は太陽であった」と言ったとおりである。月は自ら光ることができない。月の表面はガラス質の細かい砂で覆われており、それが太陽の光を反射することで光る。父親という存在も、実は妻に依存する部分が多く、その内助の功のお蔭で働けている部分も大きい。とはいえ昔ながらの男尊女卑が抜けきらない父親は、時に虫の居所が悪いと「誰のお蔭で食べられると思ってるんだ」と妻の前で示威行動に及ぶことがある。しかしそれは、往々にして自らに跳ね返り、自らの首を絞める結果になる。実際妻が家事、育児万端、無償でやってくれなければ、男はお手上げである。シャドウワークとしての家事労働は、外部発注すると年間一千万と試算されている。おそらく夫の年収ではとても払い切れないだろう。妻との関係を危うくすること、それはまさに「父には暗き蟻地獄」なのだ。齋藤愼爾には他に/いちまいの蒲団の裏の枯野かな/ががんぼの一肢が栞(しおり)卒業す/斧始めどの人柱から始めよう/影の世の見えくる薄墨櫻かな/萍の生えそめ魔界入り難し/霞むにはなぜか魂が暗すぎる/枯山から葬の手順を指図せり/生絹着て母縒りあはす縊り縄/など。

「田植機」には二種類ある。手で押しながら植えるタイプと乗って植えるタイプ。掲句は「乗りて」なので明らかに後者。共同購入して一緒に使ったりすることもあるくらい、農機具は総じて高い。「田植機」の場合、一度に何条植えられるかで値段が変わるが、「乗る」タイプだと3条植で60万円近く、10条植えだとなんと!500万円近くする。掲句は「豊かに乗りて」なので、おそらく8~10条植えのン百万の田植機なのかもしれない。専業米農家で、余程いいお米を作っているのだろう。わずかばかりの田んぼに高い田植機は使わないからだ。米の値段は等級と食味ランキングで決まる。一等米が必ずしも特Aとは限らないが、一等米で特Aなら文句なく高い値段が付く。掲句の操縦者も、米作りの研究を怠らず、結果、高い田植機も買えるほど、いい成果が出せたのだろう。農業で結果を出そうと思ったら、日々の研究・観察、土づくり、肥料作りなど、天候と睨み合わせの創意工夫が欠かせない。長年の研究、観察のたまものである知識と経験の蓄積、それ自体が経済以上に「豊か」なのだと作者は言っている。食べなければ人は生きていけない。その命と直結した食の分野での研究努力は、他の分野に比べて陽の目を浴びることは少ない。「名もなけれ」という、そういう無名の人たちに私たちの日々の命は支えられている、そのことに掲句は気付かせてくれる。斎藤夏風には他に/着ぶくれてそのおのおのの机かな/青梅落つ駈込寺に音立てて/建設の秋水鉄の火を映す/鉄骨をくぐりて春の燈をともす/蒲団干すそこに兎を追ひし山/からたちに卍掛けなる鵙の贄/クリスマスケーキ手向けてまだ暮れぬ/など。

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