KUYOMI

2018年07月

「心臓」と「さくらんぼ」の珍しい取り合わせ。「さくらんぼ」の色は赤い。アメリカンチェリーなど、モノによっては赤黒い。さくらんぼの形状も、軸のところが窪んでややハート形である。多分その両方からの連想で「心臓」が出てきたのだろう。心臓には肺動脈、大動脈、肺静脈、肺動脈が通っていて、細胞へ酸素を供給し、その帰りに老廃物を受け取っては棄てるということをしている。「心臓へ還る色」が果たしてどちらかは判らないが、私には酸素を受け取った、明るい綺麗な紅のような気がする。「紅い」と言わずに「心臓へ還る色」と表現することで、「さくらんぼ」と「心臓」という、普通は結び付かない二者の間に、初めて橋が架かった。創作者、詩人の仕事は、橋の無いところに橋を架け、全てのものはバラバラではなく繋がっていることを、それとなく示すことなのかもしれない。岩見ちづるには他に/一切の色拒みたり冬の滝/山動くほどの地震あり年詰る/水平線溢れぬ不思議ソーダ水/青葉騒行つて來ますと言つたきり/青薔薇もてはやされてより狂ふ/紙風船つくたび窪む鋳物の町/ひらがなのやうにひもとく花衣/雪こんこんこんと啼かせる指狐/など。

「蕎麦の花」と「包帯」の取り合わせが新鮮な句。おそらく「蕎麦の花」の白さから「包帯」へと連想が飛んだのだろう。連想が飛ぶのは、計算外の無意識のなせる業だから、自分でもどこへ飛んでゆくのか判らない。だから、時には「え~っ、どうしてこんなことを想ってしまったんだろう」、と自分で自分の連想に驚くことがある。「どうして」が解らないまま、それをそのまま句にすると、意外と他者が面白がってくれるところを見ると、人と人は無意識でつながっていて、「面白い」の感受性が、もしかしたら通底しているのかもしれない。満開の蕎麦の花が長方形の畑の形に真っ白に広がっている様が目に見えるようである。岩間愛子には他に/二千五年五指をひらきて追儺豆/大木の白骨煌と北雪野/泣きべその頬切ってゆく吹雪なり/海の日の大きなガラス磨きおり/赤とんぼ肩にくるくる神の声/舌の根を深々と縮め冬帽子/りんどうや霧の本流海より来/眼とひたいで出逢う雪野に光り合い/など。

「生国を捨てる」の「生国」は、広義には、国籍である日本やアメリカなどを指すが、狭義には、伊予とか播磨など、昔の日本の行政区分を指すこともある。生まれてからずっとそこに住み続けている人と、そうでない人とでは、おそらく進学、就職、転勤、結婚などの理由で、後者の「生国を捨てた」人の方が、圧倒的に多いのではないだろうか。掲句の「生国を捨てた男」もその一人だろう。「花野」に一緒にいる男をこのように表現することで、実際には多数派なのに、その男が何か訳アリのようにも、自分と一緒になるために、敢えて故郷を捨てた「特別な」男のようにも思えてくるから、レトリックは油断ならない。岩渕真智子には他に/すすき原もう結べない赤い糸/夏薊波長の合わないふたりです/春愁や眉を細めに描いている/秋霖や何枚もある診察券/豆の花遠出することなくなった/みぞおちの辺りが孤独レモン買う/白梅や知らないふりをしてるだけ/キラキラキラ一月の脳細胞/など。

「雪もよひ」だから、寒い日なのだろう。伝えたいのは、その寒さの度合。読者にどれくらい寒いかを感じさせるための工夫が「くしけづる青き裸体画」である。「裸体」だけでも寒い感じがするのに、その絵の基調色が「青」という寒色であることに、敢て言及する。そのことで、更に寒さが増し、伝えたい寒さの度合いが、かなり正確にこちらにも伝わってくる。このような工夫は、作者が単なる実景を伝えたい訳ではないことの意思表明でもある。作者のオリジナルな工夫は、作者がこの句で伝えたい本意、核心、それをできるだけ的外れにならない形で読者が受け取れるようにするための方法なのだ。岩永佐保には他に/投入れのすすきかるかや神隠し/五月来ぬピアノの角にひかり割れ/へうたんも髭の男もわれのもの/抱きとめてこの子どこの子花筵/芹の水はやし皺なき耳ふたつ/金色の尾が欲し桐の実が鳴れば/箱に立つティシュ一枚那覇暑し/など。

掲句の下敷きになっているのは、おそらくドイツの生物学者ヘッケルの「個体発生は系統発生を繰り返す」という学説だろう。それによると、胎児は受胎後、単細胞→多細胞→魚類→爬虫類→哺乳類というふうに、生命誕生から40億年の進化の過程を短期間で辿り直し、鰓や水掻き、尾、毳毛(ぜいもう)などを退化させて、最後にヒトの形態や機能を獲得するらしい。「ジュラ紀」は今から約2億年前、ジュラシックパークの映画でもわかるように、恐竜が栄えた時代。二足歩行のヒトの先祖が現れたのが、今から約700万年前と言われている。胎児は妊娠第6週あたり、体長2センチ前後から人間らしい頭でっかちの形態になる。「胎児いまジュラ紀あたり」は、そうすると妊娠3、4週ぐらいだろうか。安定期は凡そ22週過ぎなので、まだまだ流産しやすい危険な時期である。季語「青嵐」は、初夏の青葉を揺すって吹き渡るやや強い風のこと。これからくる悪阻を予兆するような風である。岩坪英子には他に/寒月や魚にもあるのどぼとけ/蟬しぐれしぐれこの世のぼんのくぼ/髪あらう天の川より水引きて/鬼太郎の一族と居る十三夜/さるすべり天上天下さるすべり/陽だまりに煤逃げの舟ただよい来・/鳥渡る外反拇趾の足袋を脱ぐ/など。

「一斉に右向く怖さ」、これを知っている人がどれだけいるだろう。自分と違う考えや価値観、感じ方、反応をする人を、直ぐに否定しにかかったり、同調圧力をかける癖のある人は要注意だ。このような人は「自然とは何か」が解っていない。自分の考え方が「自然か、反自然か」など、ヒットラーと同じで、おそらく考えたこともないだろう。自然は、動植物の種類を見ればわかるように、同じ種でも決して一様ではない。犬、猫、蜂、蟻などなど、色、形、大きさ、性質、食性、繁殖の仕方、生活圏などなど、それぞれ違いがある。毒のある茸や蛇や蝶もいれば、毒の無い茸や蛇も蝶もいる。大人しい蜂や蟻もいれば攻撃的な蜂や蟻もいる。真逆が許される、それが自然なのだ。知られている動植物の種類だけでも数百万種。一言で言ってしまえば「自然は多様」なのだが、それを画一化したがるのは、自然に関する無知のほかに、その方が物事が単純になり、面倒臭くないからだ。しかし自然界は種々雑多な多様な生物が共存することで、微妙にバランスを取っている複雑系である。単純化するということは、この危ういバランスを壊す結果を招来する。プラスもマイナスもその中間も、右も左もその中間も、オールオッケーなのが自然なのだ。季語「藪枯らし」はその名の通り、抜いても抜いても生えて来るその強い生命力で、他の植物に絡みつき枯らしてしまう。雑草というより害草と言いたいくらい、その存在の有用性が見つからない草である。しかし自然界はこのような草の存在も許しているのである。いわたたけしには他に/どの顔も庭に出ている春土曜/夏の葬ずっと一目置いていた/黄落ぐるぐる爺ちゃんの肩車/風光る人もバッグも無印で/屋根をゆく一つは爺のシャボン玉/漱石の財布が笑う四月馬鹿/年用意何もしない気忙しさ/まぼろしの戦果聞いてる南瓜かな/など。

「度胆を抜く」は「びっくりさせる、驚かせる」という意味の慣用句。「度肝」と表記されることもある。「度胆」の「度」は「度忘れ」「度近眼」などの「度」と同じく、強意の接頭語。「冬眠の鯉」とあるように、変温動物の鯉は、水温が下がるにつれて不活発になり、8度以下になると池の底に沈んで動かなくなる。0度近くでも死なないが、11月中旬~4月上旬まで、餌も食べずに越冬する。じっとして動かない鯉を驚かしてやろうという作者のいたずら心ともとれるが、文字通り鯉の生き胆を抜く、そんな意味合いも込められているのかもしれない。鯉の生き血は、昔から肺の病気に卓効があるとされ、身も、滋養強壮、疲労回復に効くということで、広く民間で食されてきた。但し胆のうには毒があり、文字通り「胆を抜く」必要がある。冬はあいにく風邪やインフルエンザなど、肺の病気にかかりやすい時期。もしかしたら、身内にそのような患者がいて、そこからの連想もあっての掲句だったのかもしれない。岩下四十雀には他に/かぶら蒸し忘れてはるか人の肌/こおろぎよ南瓜の下は都なれ/抱かんにはみな怒り肩雪女郎/押し花を展けば臍の緒でありし/亀に亀が乗って天意のごときもの/仏頭を見すぎ霞をぬけられぬ/僧ひとり料亭に待つ湯びき鱧/春昼の孔雀に挑む男かな/など。

「少年の出自はシャーレ」、これをどう読むか。「シャーレ」は寒天培養で細胞や細菌、黴などを培養する器。少年は不妊治療の果ての試験管ベイビーのように、人為的に成長をコントロールされている、ととるか、「少年」は理系思考の実験好きと読むか、シャーレの中で増えていく細胞のように、温かい培地さえあれば、幾らでも自己増殖してゆく力を持った存在、ととるか。色々に読めて楽しい。実梅は殆ど堅い未熟果で捥がれ、梅干しや梅酒などに加工される。完熟梅は柔らかく、すぐ傷むので店先に殆ど並ばない。青い未熟果で捥いで人為的に育てられた少年と、木の上で完熟するまで自然に育った少年、果たしてどちらが少年らしいのだろう。岩崎嘉子には他に/伊豆七島浮いて細螺の目玉かな/傷む木へ大蛾はりつき邑ねむる/冬芽いま藥莢ほどにレノンの忌/貯水池の丸と四角へ桜ちる/赤鱏は助六の口頭上ゆく/花通草死ぬ時の顔稽古する/来ては去る秋の漣ナースたち/木犀の香りへ敷布投げて干す/など。

「手足なくして出てきたる」にギョッとする。何があったの?と思ってしまう。それはかくれんぼしているのは子供だと思い込んでいるから。視点を変えて、「かくれんぼ」しているのが蛇だと想定したら、この疑問は一気に解消する。実際蛇は草むらに身を潜め、いつも「かくれんぼ」しているからだ。早朝散歩で草むらを行くと分るが、お腹の赤いヤマカガシやら縞蛇やら青大将やら蝮やらが、一足ごとにさささっとその長い片鱗を見せながら、隠れる様を見ることができる。その数は想像以上で、もう二度と早朝草むらに足を踏み入れるのは止めようと思うくらい居る。まさにギョッとする瞬間だ。掲句は無季だが、蛇の存在を匂わすことで、ちゃんと夏の句になっている。岩切雅人には他に/お日柄も良くて冬海ほのかなり/冬野にていつになっても恋人よ/夜神楽や岩切雅人ついに留守/暁闇の桜どこかに蛇がいる/祭の木冬の木として生まれけり/たんぽぽの絮毛ひもじく見送りぬ/風も光も痩せるだけ痩せ詩人の死/など。

日常のちょっとした違和感、謎をすかさず句にしている。電気は点いているのに、「ただいま」といっても、いつも現れる妻が現れない。返事もない。「どこへ行ったんだろう?」。たったそれだけなのに、意味深な句になる不思議!大上段に構えて俳句は作るものじゃないんだよ。その気になれば、日常はミステリーに満ち満ちている。それをすかさず掬い上げればいいだけのこと。そう作者が言っているようだ。岩城久治には他に/はじめなかをはりいっさい大文字/蜃気楼錬金術師歩きゐる/水温む今月中に返事せよ/灯点して妻現れず春の家/田遊びのほほうと言ひて鍬を嗅ぐ/竹皮を脱ぐかたはらに女身かな/人日の暮れて眼鏡を折り畳む/秋の昼頬杖ついて勤務中/施餓鬼棚打ちそこねたる釘見えて/など。

「魚」に「僧形」を感じるとは!作者ならではのこの感じ方が、この俳句の肝。実は私もそう感じたことがあるので、これはピンと来た。「僧形の魚」と聞いて、どんな魚を思い浮かべるかだが、「たどれば花あやめ」なので、川魚だろう。私は川によくいる真鯉を思い浮かべた。肌の色がまさしく墨染の衣さながらだし、何匹も並んでゆったりと泳いでいる姿は、修行僧の托鉢行脚めいている。真鯉の黒と、川に多いあやめの黄色(紫もある)の色の対比も鮮やか。岩尾美義には他に/うつうつと薩摩の国の金鳳華/うるし掻く柩のなかの男かな/おぼろ夜の馬あらわれて錆びはじむ/白髪のまひるを馬が剥いでいる/にわとりを五月六月縫い合わし/わがなかに朱肉のけむる蝸牛/白葡萄しずかに山がこわされる/など。

人が亡くなった時に持つ感慨「喪ごころ」は、亡くなった人が自分にとってどんな存在だったかによって、かなり違ってくる。人が亡くなってみて、その人が自分にとってどんな存在だったかが、初めて解ることも少なくない。自分自身を振り返ってみると、相対的に肉親に対する依存心が少なかったせいと、ある程度事前に覚悟していたせいか、父母祖父母を含め、肉親の老いてからの死は、自分でも不思議なくらい冷静で、涙も出なかった。が、予想外の、二番目の孫の死産や弟の事故死は辛く、どちらにも依存心は全く無かったにもかかわらず、涙、涙だった。掲句は「喪ごころに遠き」とあるので、もしかしたら予め覚悟の長寿者の見送りだったのかもしれない。「しほさゐ」は潮が満ちてくるときに波が立てる音。潮の干満は予報できるから、かの死も予測可能の死だったのだろう。「石蕗の花」は冬の季語。死を示唆する冬に、「喪ごころに遠き」明るい黄色の花を咲かせる。岩井進也には他に/エイプリルフール効能書を読む/海女桶のまだ濡れてゐる蝶の昼/漁火の星となりたる秋思かな/眞昼間の豪雨八月十五日/有耶無耶の関は有耶無耶雁渡る/被災地を覆ひ隠せる春の雪/蛇穴を出づるや静かなる怒り/風薫るアンモナイトの深眠り/など。

「しらかみ」は白神山地のこと。「県二つ」は青森県と秋田県。白神山地は両県の県境を跨いである。私も行ったことがあるが、樹齢400年の大木も擁する、ブナの広大な原生林に覆われていて、十二湖、青池、暗門の滝、日本キャニオンなど見どころも多い。全体の面積は13万ha。うち約1万7千haが世界遺産に指定され、開発は原則禁止、道らしい道はない。見学ツアーでいけるのは、その核心地を除いたところまで。核心地は原則入山禁止で、余程のベテランでなければ、藪漕ぎのみの踏破は難しい。俳句は、ともすればトリビアな細部にこだわった景を詠みがち。掲句は「しらかみの虹」が「県二つ」をつないでいると、思い切った大景を詠んで、読者の視野を大きく開いてくれる。五代儀幹雄には他に/まっすぐに伸びたい杉が雪弾く/忌籠りというも夜明けの雪を掻く/雪とけて道草好きな理科教師/雪掻いて七十歳の五十肩/清掃登山校歌を斉唱して終る/てのひらに遊ばせてからひよこ買う/曾良連れてここまでは来ず花林檎/など。

地球は球体ではない。自転の影響で、縦軸が少し短い楕円体(回転楕円体)である。作者はそれを「少しいびつな星」と表現した。七夕は今でいう遠距離婚の彦星と織姫の夫婦にとって、年に一度の逢瀬の時。なのに雨の確率が異常に高い。夫婦なのに年に一度しか会えないなんて、この夫婦関係も「少しいびつ」である。「生命は動的平衡の流れである」という分子生物学の福岡伸一の説に照らせば、働き蟻と怠け蟻の割合のように、戦争で大きく傾いた男女の割合のように、「いびつ」になると、自然は平衡を取り戻そうと動き出す。そのたゆまぬ動きこそが、生命の生命たる所以。「いびつ」には「いびつ」なりの存在理由や価値があるのだ。今村妙子には他に/己が色こぼさぬやうに初蝶来/のうぜんの落ちて人の世焦げくさき/くつろぎのかたちに干され男足袋/うなだれて靴修理屋の扇風機/秋うらら魚拓の尾びれ撥ね上がる/白身魚ほろつと崩れクリスマス/蛤のにこにこ濡れて売られをり/など。

「着ぶくれ」と「ダンテ」の珍しい取り合わせ。ダンテには三つの顔がある。詩人、哲学者、政治家だ。「着ぶくれ」の自分にも、この三つの要素、属性があると言いたいのだろうか。もしくは、有名なダンテの「神曲」を、本または記憶の形で懐に入れているという意味なのだろうか。いずれにしても、こう書かれると、ダンテそのものを入れているかのような可笑しさも同時に感じてしまう。ダンテは9歳で出会った同い年のベアトリーチェに一目惚れし、18歳で再会するのだが、熱病のように恋い慕うようになり、それを悟られまいと、心ならずも二人の女性に詩を送り、それが噂になる。ついにはベアトリーチェは挨拶さえ避けるようになり、他の男と結婚。自分も別な女性と結婚する羽目になる。後に24歳でベアトリーチェは死没。そこからかの神曲が生まれた。文字通りダンテを懐に、ということであれば、自分もこのようなダンテと似た側面があるということを、暗に仄めかしているのかもしれない。いい句の条件の一つに、読者に多様な読みを可能にする、というのがあるが、この句はまさにそのような句。猪原丸申には他に/キリストの肉に氷柱の突き刺さる/松茸を七つの少女のくちに入れ/真夜中の手毬に厚い女陰あり/脳内の海馬の中を鮫泳ぐ/若水をわたしの中に入れてくれ/落鮎が妻の遺骨をかじりけり/空咳をして魂の揺れにけり/紫の鮫の鱗を天竺に/など。

「鞄」はもともと牛革で作られていることが多いので、使い込むうちに、牛の獸臭さが匂うことはあるだろう。それからの連想として出てきたと思われる「エノラ・ゲイ」。一読上五中七とどう関連するのかが読み取れないくらい唐突である。この名前は、ご存知、日本に原爆を落としたアメリカの戦闘機B29の愛称である。この名前は機長の母親の名であると言われているが、戦闘機に母親の名前を付けることへの違和感から、別な意味があると主張する人がいる。「エノラ・ゲイ」はイディッシュ語で「天皇を屠れ」という意味があるというのだ。日本の真珠湾先制攻撃で始まった第二次世界大戦は、神国大日本帝国軍部のプライドに賭けて、負けを認めたくない、神風が吹くだろうことへの楽観的期待などから、結果決断を先延ばしし、遂には米軍による原爆投下の最終手段を余儀なくさせてしまう。「過ちは二度と繰り返しません」と言いながら、その後も人類は過去の過ちから学習せず、相変わらず地球のあちこちでドンパチを繰り返している。牛を「屠る」背後には、人間の都合最優先の明らかなエゴがある。戦争も自国の利益最優先、自国ファーストのエゴが根底にある。生きるとは、すなわち他者の命、利益を侵害し、それを奪うことに他ならない。エゴ抜きで、命あるものは生きることは不可能なのだ。エゴの問題は人類の究極の課題となってきた。必要悪のエゴを否定することなく、小我に生きるのではなく、大我に生きよ、という教えもそこから生まれた。「屠り・屠られる」この関係性から、生命は過去も、今も、将来も逃れることができないのだ。井上純郎には他に/夕虹が濃くてさよなら言えなくなる/嬰を抱くや暖かくなる冬の月/風のコスモスどこを突っついても笑う/野を焼いておのれ葬る如屈む/海遠く霜夜の溲瓶鳴つており/晩鐘に首重くなる葱坊主/地獄絵の底で暴れる冬の蝿/など。

下五の「かな」が、「やっぱりここは<かな>だよな」と思わせるくらい効いていて、納得の句。大寒の寒気が顔に張り付く感じが、これ以上の表現のしようがないほど、見事に言いおおせている。物事の本質を直観的につかむ、俳人ならではの感性、恐るべし。井上康秋には他に/あきらめてをらず人中ひとり夏/へうへうと落葉蘇生すあまたたび/老の逆鱗うぐひす餅の粉/にんげんにはんぶんはなし寒卵/手袋を脱ぎうつくしきフルネーム/生きをればあり舌頭も白桃も/さへづりの円心にゐて農捨てむ/など。

囲炉裏か火鉢を使う際、炭火を灰で覆い、火種を長持ちさせたり 火力を調節したりする。これを埋火という。埋火は、秘めた恋の暗喩としてもよく使われてきた。作者も灰に埋けられた炭火を見て、それを連想したのだろう。「恋」という字の中の「心」に似ていると。この発見がこの句の命。こういう発見は早いもん勝ち。読者の共感性も高い。いのうえかつこには他に/等分のキャベツに今日と明日が出来/たのめなきこと狐火を見るごとし/万里より使者来るごとく初日待つ/春寒や貝のはなさぬ海の砂/山中に煮貝を噛みてさくら冷/月あらぬばかりに朧深むなり/集まつてきては育ちぬ春の水/など。

豪雨災害を経験しないと「どういう寓意があるのだろう?」と、喩として捉えてしまうような句である。「出水」の季語は直接的には使っていないが、明らかに水害の句だ。テレビで視ているだけでも、現実にこんなことが起きるなんて、と思ってしまう今回の西日本豪雨災害。「枕」だけではない。ピアノや冷蔵庫や表彰状に至るまで、なんにでも「泥が流れ」こんできてしまって、手が付けられないほどだ。災害の悲惨さは当事者になってみないと、その本当のところは解らない。不可抗力の自然災害で、それまで積み上げてきたもの、日常そのもの、それらが根こそぎ一瞬で奪われることの茫然自失は想像に余りある。俳句という形で、悲惨な経験を残し、時間とともに風化させない、ささやかなこういう試みが、将来の命をもしかしたら救う一助になるかもしれない、そう作者は考えたのかもしれない。稲葉 直には他に/あごひげに鼠を湧かせ濡れ遊ぶ/がさがさと雑木を移る十一月/たんぽぽの黄は血圧の低き黄なり/喰い飽きし顔へ林檎が木でぶらつき/石棺の夜へたたみこむ傘の骨/大根おろしの水気たよりにここまで老い/潮ごうごう松がごうごう睾丸二つ/など。

「すごい」という散文的口語表現を躊躇なく使う、この逡巡の無さがまずは「すごい」。俳句らしく仕立てようという、選者に媚びた変な色気がないのもいい。要は自分の詠みたいように詠んでどこが悪い、と完全に開き直っている。肝が据わっている。虎杖(いたどり)の生命力、特に山で遭遇するそれは、人間の背丈を越えてびっしりと蔓延り、それを見た瞬間、誰でも「爆発だ」という表現に共感するに違いない。岡本太郎の「芸術は爆発だ」と同じくらいインパクトがある。その時に感じた生々しい感動を、技巧を凝らさずそのまま吐き出す、読者の心を打つのは、この純粋に投げ出された感動のインパクトなのだ。稲葉千尋には他に/あかつきの機関車となる大毛虫/スズメバチ庇はすごい磁場である/田植機の兄貴に抛るにぎり飯/蝮ほど跳んで鉄棒掴みたり/黄砂の八A病棟に来る牛乳売り/秋うらら小さな人がお辞儀する/紫陽花を浮かべて平和水の星/素敵なり穴出でし蛇御神酒飲む/など。

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