KUYOMI

2018年02月

「吊革」と「梅雨の街」が「つ」の頭韻でつながった取り合わせ、「ごとり」と「うごく」の「ご」の響き合い、電車の「内」と梅雨の街の「外」の対比も見逃せないが、何より注目するのは、動いているのは電車の方なのに、梅雨の街の方が動いているように感じられること。川の流れをじっと見つめていたり、雲の流れを見つめていると、同じような錯覚が起きるのは、誰もが経験済み。それと同じことが、動く電車の中でも起きるという発見がここにはある。動きそうもないものが動く、その錯覚の「おっ」という瞬間を見逃さない。通勤の電車の中でも、俳句の種は見つけられるのだ。横山白虹(1899-1983)には他に/胸の上にこほろぎが鳴くと云ひて死にし/きらめきて月の海へとながるゝ缶/たそがれの街に拾ひし蝶の翅/らんまんとえいてるの花咲ける部屋/草の絮ただよふ昼の寝台車/原爆の地に直立のアマリリス /空梅雨に黄なるネクタイひるがへす/など。

確かに!一見飛魚が自分の主体的な意思で飛んでいるかのように見えるけれども、実はそれは逆で、大海原の意思が主体的に飛魚を「出し入れ」しているんですよと、主客を入れ替えてみせた。「魚だけが生きているんじゃないんですよ。海だって生きているんですよ」ということを暗に示し、生命というものを固定的に捉えることに慣れた人たちに、「こんな見方もありますよ」、と新たな見方、解釈を提示してみせた。これは飛魚だけでなく、海そのものにも命や意思があるのだという、アニミズム的世界観、「山川草木国土悉皆成仏」の天台的世界観にも通じる見方。「文は人なり」で、俳句のわずか17音にさえ、自ずから作者の腹の内、価値観や世界観が反映されてしまう。その価値観や世界観が大衆迎合型であれば、自ずから作る俳句もそうなってしまうだろう。新たな何かを付け加え、生きることをより面白くすることに貢献することはない。作句以前に、すでに俳句は始まっているのだ。百合山羽公(1904-1991)には他に/故郷ありねずみ花火の地べたあり/暑気中りどこかに電気鉋鳴り/夜長しナースボタンの紐長し/蠅取紙飴色古き智恵に似て/扇風機ジャズの楽器のいまやすむ/茶の花のかげのきてゐる囮かな/五月鯉常滑土管口無数/生まれたる蠅すぐ人を疑へり/など。

3・11の句。東風を殺める=東北に春は来なかったということなのだろう。私の友人のお母さんも、たまたま石巻の実家に法事で帰っていて、そのままついに帰ってこなかった。一気にあの時に引き戻されて、切ない。柚木紀子(1933-)には他に/ものの芽の翻筋斗(もんどり)打てる天地かな/ななへやへ屍かたむく夏わらび/ざらと置くロザリオもまた冬景色/MOTHERLESS EVE瞠(みひら)く曼珠沙華の中/初蝶の沖つかひきる大海嘯(おほつなみ)/など。

雨や台風の後の濁流も、晴れの日が何日か続くと、何事もなかったかのように元の澄んだ水流を取り戻す。人間はきれいな水なしには生きていけないが、同じように「忘れる」という特技、恩寵なしに、心を健康に保つことができない。脳医学的には、何もかも記憶すると、人間は発狂するのだそうだ。「澄む水」と「忘れる」という異質のものが、「人間の生存にとって不可欠」という一点で見事通底している。山田佳乃(1975-)には他に/箸入れて風呂吹の湯気二つにす/突風に糸瓜だらりとしてをれず/穴ひとつ開いて気安き障子の間/神々の高さに鷹の光りをり/掛け違ふボタンの堅き春コート/トロ箱に涙目光る桜鯛/三日月の崩れてゆきし海の果/黒髪に編み込んでゆく冬日かな/など。

「もうごはんまたごはん」は多くの母親の実感そのもの。日に三度のご飯仕度に費やす時間は、後片付けも含めるとバカにならない。しかも無休、無給のシャドウワークだ。作る時間に比して、食べる時間は総じて短い。2時間かけて作ったものを、ものの10分ほどで食べ終えてしまう。「賽の河原に石を積む」ではないが、やってもやっても元の木阿弥、白紙に戻されてしまう徒労感。それを季語「白さるすべり」に象徴させた。白が、白紙に戻ることの象徴、さるすべりが、登ろうとしても幹がつるつるなので、そのつど滑り落ちてしまう徒労感を象徴している。山中葛子(1937-)には他に/未来少々藤のむらさき本気なり/ロボットのつるつることば冬灯す/夕焼の古くてかわいい道に出た/折れてひかる葱の裸の夜明けです/昼顔やひとりというはおおざっぱ/父恋えばぽんぽん鳥やらばくち鳥/荒星よ妻よはりさけるタオルのよう/など。

忘年会アルアル。みなさん出来上がってますからね。問題は、殿方はどれも似たような靴を履いてくること。どれが自分の靴やら、酔眼ではトンと見分けが付かないというわけ。「おい、俺の靴はどれだ」なんて言われたんでしょうね。履いてみてジャストフィットしたら、多分自分の靴。居残り組が最後帰ろうとしたら、自分の靴を誰かが履いて帰ってしまったという悲劇もよく聞く話。「てめえの」のこの一言だけで、忘年会が終わって、みんなグデングデンだということが、目に見えるよう。お行儀のいい言葉では、この雰囲気は絶対出ない。一言が、句の生き死にを決める。一言にトコトン拘るのが、俳句の醍醐味といっていい。山本紫黄(1921-2007)には他に/新涼の水の重たき紙コップ/日の丸は余白の旗や春の雪/人文字を練習中の日射病/「君が代」に起つも起たぬも蝌蚪の昼/大原女風にサーフボードをかづく夕/春の秋子は赤い鳥居に照らさるる/生別も死別もいづれ春の水/初場所の東と西の水と塩/など。

「爼に魚」なら当たり前。そこをさらに踏み込んで「魚の弾力」まで言ったことで俳句になった。取り合わせた季語「雲の峰」も、「弾力」を感じる雲の筆頭。互いに響き合っている。視線の下の魚:視線の上の雲で、対比も効いている。山本左門(1951-)には他に/乱歩忌や空気枕を膨らます/受難節肉屋の鉤のひとつ空く/だんだんと切なくなりし立泳ぎ/ひまはり直立圧倒的なさみしさ/夕桜濡れて戻りし消防車/水彩のやうな出血ヒヤシンス/騒然と標本の蝶天の川/黒葡萄夜が膨張しつつあり/風花や硝子を走る硝子切/など。

「墨東」と「鉄砲百合」と「デマ」という、言葉のマリアージュが楽しい句。ロートレアモンの『マルドロールの歌』にある「解剖台のうえの蝙蝠傘とミシン(と同じくらい美しい)」と似た「取り合わせ」という詩の手法だ。合理的に解釈可能な物語をこの句に期待しても無駄。原爆や311じゃないけど、人生は「どうして、この私にこんなことが」の予測不可能性に満ちている。起きるすべてのことを合理的に解釈などできっこないのだ。それと同じように、この句にも、読者の「理解したい」という欲求、それを満たしてやろうというサービス精神はない。むしろ、読者を翻弄することを楽しむというか、「起きることは全て時に適って美しい」という聖書の言葉さえ思い出させる。詩は批評精神の発露でもあるから、「鉄砲百合がデマを飛ばす」ことなど「あり得ない」と思い込んで疑わない人こそ、この句の格好のターゲットなのだが、そういう人に限って、こういう句には見向きもしない。彼らは多分、不慮の災難に遭うと、運命を呪い、神を呪い、世の中や時代を呪い、なかなか立ち直ることができないタイプの人たちだ。この句は、詩に必死で意味を見いだそうとする衝動をちょっと抑えて、気分転換の一服のように面白がる、有益で、役に立つことだけではなく、アソビ、余白、無駄、無意味も愛でる、これは、そういうことを暗に奨励する句なのだ。山本鬼之介(1938-)には他に/山眠り伸ばしてみたる乳房かな/任侠の山にたなびく夕霞/きなくさき元祖・本家よ青簾/炎日やむかし語りの行き斃れ/秋の蚊を払ふ女形の袂かな/マンホールを出でてつくづく天高し/文人的鬚たくはふる神無月/はすつぱな華僑のむすめ十三夜/など。

一口に「赤」といっても、漢字では赤・緋・紅・朱、どれも「あか」と呼ぶ。字が違うということは、それぞれ微妙に色味が違うということ。和名だけでも赤系は70近くある。明暗だけでなく、様々な色を混ぜて作れば、やや紫がかった赤とか、黄味がかった赤とか、灰色がかった赤とか、、、それこそ無数にできるのが色というもの。俳人は多分に妥協を許さない人種である。こだわりが強い。「これしかない」という言葉を、選りに選るのが習い性となっている。それが他にも影響して、毛糸選びにも自ずから出たということだろう。欲しい色じゃなくてもそれしかないなら、そこで安易に手を打って買ってしまうのか、それとも欲しい色に巡り合うまで、何軒でもしつこく毛糸屋巡りをするのか、どちらの自分かは、一事が万事、多分俳句にも出てしまうだろう。作句以前に、俳句はもう始まっているのだ。山下知津子(1950-)には他に/男を死を迎ふる仰臥青葉冷/ふたりからひとりの生まれ朧月/十万年後のきれいな空気黄水仙/あたたかし汚れて猫も人間も/檸檬の花こぼれ生涯兄持たず/麦の秋弊衣跣足のイエス立つ/ふらここのわが骨片を托す子よ/国捨てし少年冬の河馬の前/など。

要するに「惚れました」なのだ。歌の巧拙で相手を値踏みした平安の歌垣じゃないけど、こんな句を貰ったら、相手が年増でも、心ある男は無視できないのではないか。雪の花の味も試してみても悪くない、ついそんな気になるのではないか。春の花だけを愛でたがるステレオタイプの、見かけ重視の無粋な男には、いなせで中身がハンサムウーマンな女は靡かないし、そもそもこんな言葉で口説かない。見どころのある、それなりの男だからこそ、一夜を共にしたいと思ったのだ。心敬の冷寂(ひえさび)の美学を解するか否か、男への踏絵も兼ねて、ダメ元で発した捨て身の言葉。照れ隠しが自ずから命令形となっているのが、何とも可愛らしくて微笑ましい。山口都茂女(1932-)には他に/ましろなる山伏を追ひ昼寝覚/蝮草うしろすがたを伸ばしけり/髪洗ふ妖精とゆびさされけり/羽抜鶏鳴かねばたるむ首の皮/いつ過ぎし狐の関所朴の花/黒のベレー探しに戻る枯木山/凍蝶にとどいてをらぬ朝茜/五月憂しほろほろ鳥の走る走る/など。

穴の中と外では微妙に体感温度が違うという発見がここにはある。大寒とはいえ、穴の中では風も感じにくく、穴には土を掘るときに生まれる人体からの熱がこもり、寒さを和らげるからだ。「穴の外にいる」と「大寒」は「や」で切れながら、「寒さ」で通底し、異質のものがつり合っている。また「大寒」の寒さと「穴を掘る」ときの体温の上昇からくる熱の対比もある。シンプルながら俳句の「取り合わせ」の要諦をキチッと抑えた句。山崎 聰(1931-)には他に/千年の形状記憶ひきがえる/おぼろ夜のいちばんはじめから歩く/人生のうしろの方で亀鳴けり/くらがりの奥のくらやみ神の留守/しんがりに始祖鳥のいる冬の景/子午線をすこしはみ出しあめんぼう/ローマより天竺遠しほととぎす/など。

「昭和十年十二月十日に/ぼくは不完全な死体として生まれ/何十年かかゝって/完全な死体となるのである」という寺山修司の『懐かしのわが家』という詩と同工異曲。「吾亦紅」も、どちらかというと蕾や実に近い形状で、花らしくない。花の一般的なイメージにそぐわない、花としては未完成、不完全という意味で、内容とジャストフィットしている。俳句は、長歌→短歌→連歌の発句→俳句という変遷を経て生まれてきた。長いものをどんどん短くして、ぎりぎり長歌の意味の面影が残る、それくらいまで省略したものが俳句である。優れた俳句は、この道筋の逆を辿るよう読者の想像を喚起する。わずか17文字の面影を頼りにどんな物語に到達できるかが、読みの醍醐味。選者評を長く書ける、物語れるものが、必然的に天の句として選ばれるのも頷ける。山﨑十生(1947-)には他に/車座になつて銀河をかなしめり/気をつけて死んで下さい春隣/風のないときは乱れてゐる芒/海底に鳥居そこから月上る/三鬼の忌近し空気を抜く枕/告白はしないつもりだ額の花/根の長き芹を伝ひてくる月光/コスモスの一番低いのを探す/など。

叱るのは、子に非難すべき点があるから。しかし、叱っている父親とて人間。非難されるべきことの一つや二つ持っている。だからと言って子供を叱るのに手加減したのでは、子供のためにならない。叱るときは「純白」な父を演じて叱る。しかし叱りながら胸の内は忸怩としている。キリストが「白く塗られた墓」と呼んだ偽善者のような気分。まさに冷えびえと「冬」なのだ。こういう自省自責さえなく、世の多くの親は正義を振りかざして恥じることがない。こういう親に育てられた子が、SNSなどで他罰的な発言をして炎上させるのかもしれない。山上樹実雄(1931-2014)には他に/頬骨に保たれてけふ春の顔/病室を揚羽の骨のぎくぎくと/白塗りの妓が過ぎやがて寒気過ぐ/はなれゆく人をつつめり秋の暮/万緑のどこに置きてもさびしき手/咳をして死のかうばしさわが身より/強慾な七夕紙のぶら下がり/退院の一歩に娑婆の霜柱/など。

景がよく見える。暖かい日なのだろう。羊のいる草原が、陽炎で揺らめいている。当然羊は草を食べているのだが、それを敢えて「陽炎を」といったところ、さらにはそれを「よく噛んでいる」と表現し、もう一歩踏み出したところ、その二つがこの句の眼目。俳人ならではの表現の妙!山尾玉藻(1944-)には他に/遠足の列恐竜の骨の下/鴨鍋のさめて男のつまらなき/くちなしにぞろと着物の父の佇つ/夫覚ますごとく煮凝揺らしけり/紅梅の影する畳拭きにけり/死に顔を見にゆく日傘開きけり/鮟鱇のややこしき骨挵(せせ)りけり/落椿よりはじまれる大干潟/など。

「夕顔」という植物と「猫」という動物の、異種配合の句。「夕顔ほどにうつくしき」、これをどう読むか。まさに読者の数だけ読みが生まれるような仕掛けがここにある。夕顔ときいて、源氏物語の夕顔を思い出し、猫のみならず人間の雄をも魅了する、うつくしい雌猫を思い浮かべる人もいるだろう。一夜花から、儚げな様子がなんとも魅力的な雌猫を想うかもしれない。夕顔の白い花からは、毛並みの輝くばかりに真っ白な猫を想う人もいるかもしれない。夕顔の花の花びらは少しフリルが入っているので、真っ白で少しカールした毛並みの猫を想う人もいるかもしれない。この句の中で「夕顔」は猫を描写する「喩」として用いられているが、実体の存在感は決して希薄ではない。読者は否が応でも夕顔を頭に想起し、その属性に想いを馳せざるを得ないよう強いられる。高屋窓秋の「頭の中で白い夏野になつてゐる」の夕顔版、夕顔は、読者の頭の中に、しっかりとした実体となって存在するのだ。山本洋子(1934-)には他に/人日の納屋にしばらく用事あり/ヒマラヤの麓に古りし暦かな/母衣蚊帳の上に鳴りだすオルゴール/小鳥屋が堅き戸下ろす月の町/早き瀬に立ちて手渡す青りんご/外海といふ大いなる春の闇/正月の人に寄りくる鴎かな/刈萱や池にうつりて女来る/など。

毒空木は、トリカブト、毒芹とならぶ三大毒草。実だけでなく茎や葉も全草猛毒である。食べると痙攣、呼吸困難になり、死ぬこともある。毒々しい黒い実は甘く、それを食べて農村の子がよく命を落としたらしい。そのために実際毒空木を刈ることも行われた。掲句には、実景というだけでなく、子育てへの警鐘も匂う。母親は厳しく育てているのだが、祖父母や周りが甘やかすので、子育てがなかなか思うようにいかない苛立ちがあるのかもしれない。眼前の嘱目を写生することに加え、モノに仮託して寓意または心象風景を描き出す、それもまた俳句の一つの在り様だ。安井浩司(1936-)には他に/ひるすぎの小屋を壊せばみなすすき/麥秋の厠ひらけばみなおみな/死鼠へいきなりかぶさる浄瑠璃よ/鳥墜ちて青野に伏せり重き脳/鶏抱けば少し飛べるか夜の崖/祖母達は股にはさむや畠つ物/松脂まで蛇捲きからむ春の午砲(どん)/など。

「アノラック」は防寒具だから着れば暖かい。そのアノラックに対して「あばよ」、そして「みんないってしまったさ」と続く。この諦めや腹立たしさを含んだ投げやりな物言い、そこから伝わってくる気分は間違いなく寒々しい。「暖」と「寒」の気分の対比を、気温の「寒」で通底させている。俳句はモノに託して、言うに言われぬ複雑な気分を読むのに適した詩型。お行儀のよい定型表現では、この気分は伝わらない。表現したい気分に合った文体や言葉遣い、それを選ぶのも、表現者としての大事な務め。蓮っ葉な言葉と破調表現を組み合わせることでしか伝えられない気分があるのだ。八木三日女(1924-2014)には他に/満開の森の陰部の鰭呼吸/女医臭ふ幾度び花火くゞりても/傷を縫ひ菓子喰ひ雪を掬う手よ/紅き茸礼賛しては蹴る女/福寿草咲いてもわたしは嫁きませぬ/品定めしてジャコメッテイの痩せぐあい/背を向けて蜜を煮るには暗すぎる/など。

発見の句。鳴き声や話し声、時には歌も唄って見せる、物まね上手な九官鳥。その九官鳥が同じ九官鳥同士だと「無口」だという。「おしゃべりな」という形容詞がマストな九官鳥のイメージとの、このギャップ!この衝撃をこそ、俳句は詠まなければならない。季語「うららけし」の斡旋も効いている。長年連れ添った夫婦や親友同士も、一緒にいる時は意外と無口らしい。沈黙が重くならない相手、そういう人が本当の意味で「同士」なのかもしれない。望月 周(1965-)には他に/凧墜ちて凧の吐いたるごとく糸/人形は電池を抜かれ暮れかぬる/矢の飛んできさうな林檎買ひにけり/流灯の白蛾を連れてゆきにけり/鬣(たてがみ)の上から咬まれ息白し/火の中を火の粉のとほる寒さかな/椿ふたつ井戸を落ちゆくさま思ふ/など。

ここには何ら因果関係は見当たらない。「偶々」そうだったというだけ。人生は人間の予想通り、計算通りには、概ね行かない。「偶々」受験に失敗し、「偶々」入った大学で、「偶々」出会った人が、その人の人生のキーパーソンになることがよくある。人生の節目節目には計算外のことが起こり、それによって方向転換を余儀なくされ、結果、自分の本来行くべき道へ導かれていく。それが普遍的な人生の法則だ。俳句が「予定調和」を嫌うのは、一つはそれが大きな理由である。「朧」という掴みどころのないものと、マーマレードをしっかり掴みあげてくる、存在感のある「匙」との見事な対比。「朧」の気体と、「マーマレード」の液体、「匙」の固体、自然における存在の三態が1句に凝縮している。森賀まり(1960-)には他に/月入るや人を探しに行くやうに/合歓の花不在の椅子のこちら向く/けんかの子百合の莟のやうに立つ/ふらここや岸といふものあるやうに/我を見ず茨の花を見て答ふ/秋水にオーケストラの百五人/火に近く十一月の柱かな/瞬きに月の光のさし入りぬ/など。

「グエンさんコさん」は明らかに日本人ではない。どこの国の外国人労働者か、一読名前だけで解ってしまう。前者は多分ベトナム、後者は多分韓国だろう。名前には、その国を特定する手掛かりが、かなり決定的に出てしまうという発見、それがこの句にはある。日本も外国人労働者が増えて、私の住む田舎町さえ多国籍の人に出会うことは珍しくなくなった。人手不足の日本の産業も、彼らの存在抜きでは成り立たない。言葉や習慣の違いにかなりのストレスを感じながらも、彼らは母国にいる親兄弟のため、子供のため、仕送りしながらつつましく暮らしている。以前住み込みで働いていた時に出会ったフィリピンからの出稼ぎ労働者もそうだった。古着を集めては、母国の貧しい人たちに送っていた。勤労感謝の日は、こういう人達のことも思い出したい、そう作者は言っているようだ。本井 英(1945-)には他に/弦月の弦とけてゐる寒の晴/息の音のさよならさよなら夜は短か/妻知らぬセーターを着て町歩く/校門をごろごろ閉ぢて秋の暮/電球のやうにぷつくら茶の蕾/秋草や妻の形見の犬も老い/団塊の世代の君ら小鳥撮る/離陸機が冬霞より這ひ出でし/など。

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