KUYOMI

2017年07月

少し前組長のブログで「雪」の傍題23で俳句の募集があった。その最後が「雪国」。雪国らしさを何に一番感じるか、夫々が「自分はこんなところに雪国らしさを感じる」という句を投稿した。この句の作者は「鼻毛の動くこと」に雪国らしさを感じるという。確かに家から外に出た時、鼻から吸う空気の冷たさに、鼻の毛穴がきゅっと反応するのを感じる。呼気に籠る水蒸気が鼻毛のところで一瞬凍りつくような、そんな感覚がある。体温を逃がすまいとして、毛穴が縮む。その瞬間的な自己防衛、それが「いのち」なのだと作者は言う。「自己防衛本能」無しに、命の存続はあり得ない。いのちの本質を鋭く突いた一句となった。竹本健司(1932-)には他に/ぶらんこの上で幾つも年をとる/一人分空けてもろうて春の山/低く翳る妻そのほかはかたつむり/夏山のどつちへころんでも同じ/有り丈の時使うたるきりぎりす/狂わずに男盛りを蓬餅/長男の裏へ回れば柿遊ぶ/雑木林に石や三日月それで終り/など。

「蒙古斑」は黄色人種の赤ちゃんなら、全員お尻にもって生まれる青アザのこと。まさに熊楠は、象徴的な意味で、終生蒙古斑を持ち続けた。幼子のような好奇心丸出しで、興味の赴くまま、なりふり構わず生きた。西の方角は西方浄土。熊楠が多分死後居るであろう処。そこへ作者は「熊楠ヤアーイ」と呼びかけている。季語は「西日」。長い日脚を伸ばして部屋に入り込むさまは、さながら熊楠が研究対象として飽きなかった粘菌のようだ。竹中 宏(1940-)には他に/蛇穴を出て今年はや轢かれたり/半抽象山雀が籠出る入る/青葉木菟「薬くだされ」と上眼/豆咲いて彫像の顔アジア人/ずつてくる甍(いらか)の地獄蜀葵(たちあおい)/皆伐(かいばつ)の淵に泡古る年のくれ/花の夜をボールふたたび淵を出で/など。

これは明らかに「我思う、ゆえに我あり」というデカルトの言葉のパロディ。「我なし」の「し」と「蕪蒸し」の「し」で、脚韻を踏んで遊んでいる。そしてここが大事なところだが、下五に季語の「蕪蒸し」という「料理」をもってきたことで、このパロディが単なる機知や言葉遊びを超えた、奥行きのあるものになっている。なぜなら、料理、特に蕪蒸しなどという繊細微妙な味わいの料理を作る時には、料理人はほぼ「無心」だからだ。料理をしてみれば解るが、料理をしている最中、人は自分のことなど全く眼中にない、忘れ去っている。またそうでなければ美味しいものは作れないのだ。この句はそういう意味で、料理の核心をうまく突いている。核心を突くことで、単なるおふざけに終わらず、俳味ある句として成功している。武田伸一(1935-)には他に/田回りに背広着てゆく生身魂/かなかなや僧がキャッチボール始める/ががんぼは窓擦る沒落するのだな/ぐわんと犬サングラスで過ぐふるさとよ/ふへふへと花の根元の酔っ払い/ふるさとのうみやまおがわ獅子頭/皮を脱ぐ蛇です当意即妙です/など。

「闇」を形容するのに「豪奢」という言葉を使ったのは、多分高橋睦郎だけだろう。「豪奢」というたった3音のオリジナリティが、17音を俳句たらしめている。私も「闇」を形容するのに「甘き闇」という表現を使ったことがある。かように、誰も使ったことがないであろう「意外な形容」をしてみるのは、17音を手っ取り早く、かつ確実に俳句に仕立てる王道の一つだ。高橋睦郎(1937-)には他に/蛞蝓の化けて枕や梅雨長き/私忌いな世界忌の大夕焼/雌(め)の黙(もだ)のひたと雄蝉の歌立たす/冬の海吐き出す顎のごときもの/髑髏みな舌うしなへり秋の風/市振や雪にとりつく波がしら/蟲鳥のくるしき春を無為(なにもせず)/など。

「放蕩」と「金糸南瓜」の珍しい取り合わせ。取り合わせの妙は、「近すぎず、離れすぎず」だが、これは見事にそのセオリーに嵌った。一見無関係に見える「放蕩」と「金糸南瓜」に、ではどんな共通点があるのか?「金糸南瓜」とはいわゆるソーメンカボチャのことで、、、と言っても知らない人も多いかもしれない。普通南瓜と云えば、ホクホクした黄色いでんぷん質の身を食べるイメージだが、ソーメンカボチャは、その名の通り、身は殆ど無くて、春雨ぐらいの太さの、大根の千切りのようなシャキシャキした食感の糸状のものがびっしり詰まっている。その糸状のものを炒め煮したり、酢のものやスープにして食べるのだが、要するに南瓜らしくない南瓜、非常識な南瓜なのだ。「放蕩」のはじめが「常識」や「型」に嵌らない逸脱指向にあることを、この句は見事に示唆して、俳人の「本質を見抜く目」を遺憾なく発揮している。高野ムツオ(1947-)には他に/祖母の陰(ほと)百年経てば百日紅/われら粗製濫造世代冬ひばり/海鵜憂し光まみれであるがゆえ/東京は寒し青空なればなお/アトピー性皮膚炎のわが月見草/冬田の闇ざっと一億瓲ぐらい/地下鉄晩夏翅毟られし者ら乗せ/梅一輪一輪ずつの放射能/など。

朴の花は、アイボリーな色といい、その大きさといい、花びらの形状とその肉厚な感じといい、花の一般的な概念をちょっとはみ出た、なんともノーブルな花である。人を惹きつけるオーラを発しており、ある種独特の雰囲気を持っている。掲句の朴の花も、勿論物理的な高さを言っているのかもしれないが、それだけとは思えない。「狂わねば」という措辞から、俗世間を超越した孤高の存在の象徴として、朴の花が詠まれている気がする。俳句は、作者の心の丈が如実に出てしまう、怖い文芸だ。孤高を目指せばこそ目に留まる、気になる、それが朴の花なのかもしれない。高澤晶子(1951-)には他に/先生の余命と勝負燕子花/にんげんの男に預け浮袋/戦争ではじまりおわる手毬唄/恍惚の直後の手足雪降れり/水無月の宙を吸い込む鯉の口/無防備に横たわる彼晩夏光/花盛り密かに時計遅らせる/西日射すいざというとき死ねばいい/など。

俳句かそうでないかを決定づけるのは「一語」の発見である。この景はとりたてて珍しい景ではない。下草も葉っぱも枯れ切って、がらんとした見通しのいい枯山には、なぜか知らないが、雑誌や新聞がよく落ちているからだ。この句も「人間臭き」で俳句になった。「枯山」と「新聞」の「取り合わせ」も、俳句らしさを醸しているけれど、「人間臭き新聞紙」の方がより俳句らしく、インパクトがある。実に人間はどんなところにも入り込み、足跡を残さずにおかない。よくもまあこんなところに!というところに住んでいたりする。未知への好奇心、探検願望が、そうさせるのだろう。人間の姿は見えずとも、人間の残した新聞が、むしろ人間存在とその永久不変の本性を、ありありと感じさせてくれるのだ。鷹羽狩行(1930-)には他に/スケートの濡れ刃たづさへ人妻よ/ああいへばかういう兜太そぞろ寒/牡蛎の酢に噎せてうなじのうつくしき/その前に一本つけよ晦日蕎麦/蛇よりも殺(あや)めし棒の迅(と)き流れ/黙礼のあとの黙殺白扇子/鮒ずしや食はず嫌ひの季語いくつ/など。

「あおあおと」が、「春七草」と「売れのこり」の両方に掛かっている。「春七草」が「あおあおと」しているのは当たり前だが、「あおあおと」「売れのこ」っているのは当たり前ではない。普通売れ残っているものを形容して「あおあおと」とは言わないからだ。この「発見」が、この句の句たる所以。俳句はげに「一語の発見」にかかっている。七草を摘みに行かずに「買う」ようになってしまったこと、そうやってなんでもかんでも「買える」便利でラクチンな世の中になったにもかかわらず、七草粥という、やや手間のかかる「文化」が廃れていくのはなぜか?便利さや楽をひたすら追求してきた人間の努力の方向性は果たしてこれでよかったのか?そういうことへの批判や皮肉もちょっぴり混じっている。高野素十(1893-1976)には他に/明日は又明日の日程夕蛙/小をんなの髪に大きな春の雪/苗床にをる子にどこの子かときく/小説を立てならべたる上に羽子/たんぽぽのサラダの話野の話/自動車のとまりしところ冬の山/餅板の上に包丁の柄をとんとん/食べてゐる牛の口より蓼の花/など。

割れた甕を手水鉢代わりにでも使っているのだろうか。昔の人は「完璧」をヨシとしなかった。見る者に想像力の働く余地を与えない「完璧」は野暮だった。「不完全」と「欠けたる美」こそ最上、という価値観があった。エントロピー増大方向、「不均衡」こそ、活気と生動を生むと考えた。作者も多分にそのような価値観の持ち主なのだろう。古来月を盥の水に映して捕獲することは風流とされていたが、同時に満月ではなく「月の欠けたるをこそ」「雲に隠れたるをこそ」という、やはり「想像力を喚起する」かどうか、それに重きをおいていた。この句ではそれをさらに一歩進めて、捕獲した月を「割って」みせた。作者の「どうだ」という得意顔が見えるような句。宗 左近(1919-2006)には他に/氷柱から銀河の落ちる谺の夜/鳴きはせぬ蛍を柩に忍ばせて/骨だけになってからが美しいきみ 珊瑚花/鰯雲 恋が祈りとなるあたり/マイナス一千億光年 よって美しく凍る瀧/天守閣 全層氷柱 総落下/水中花 遺影の締める色ネクタイ/など。

シュールである。まず読者は「箪笥に呼ばれるってどういうこと?」と思うだろう。まんまと作者の仕掛けた罠に嵌ったのだ。アリジゴクの蟻のように。落ちたら最後、想像の無間地獄に囚われる。考えても、考えても、答えには永久に辿り着けない。なぜなら最初から答えなど無かったからだ。長考を強いられた分、句は鮮明に印象付けられ、記憶から容易に消えてくれない。おまけに景は決して不明瞭ではない。つげ義春の漫画にでも出てきそうなほど、くっきりしている。合理に馴らされ、リアリティに囚われ、意味が通じるように、通じるようにと、辻褄合わせに腐心してきた人には、ゲテモノ趣味の句に思えるかもしれない。認識や常識に揺さぶりをかけることが芸術の使命だとすれば、正にこの句こそ、芸術といわねばならない。宗田安正(1930-)には他に/あやまちて天上の麦刈りつくす/仏間にて月光倒る音したり/凍蝶のこときるるとき百の塔/カフカなどつまりシホカラトンボかな/うすうすと天に毒あり朝桜/初夢のあまりに美(は)しき馬の貌/空蝉のふかなさけよりのがれきし/など。

一見すると季語がないようだが、明らかに飛魚(夏の季語)の句。飛魚というダイレクト表記をせずに、飛魚を感じさせようという魂胆。「あれっ、季語は?」と読者が一瞬立ち止まったら、作者の思う壺。さらにこの句の眼目はもう二つある。一つは「文盲の」魚。魚が文盲なのは自明の理。それを敢えて言葉にしてみることで、文盲でない自分を改めて見直し、飛魚と限らず、青魚を見るたびそれを思い出すという、ヘンな連想後遺症?が残る。三つ目の眼目はカタカナ表記。飛魚の魚体及びその飛翔の様はカタカナの直線的なイメージにマッチする。また、文盲の人が文字に親しむ最初が、多くカタカナであることをも思い起こさせる。多重な読みを促すための幾つもの仕掛けを仕込んだ、からくり人形のような句。関 悦史(1969-)には他に/地下街を蒲団引きずる男かな/金網に傘刺さりけり秋の暮/人類に空爆のある雑煮かな/ヘルパーと風呂より祖母を引き抜くなり/覚醒剤の如くに白き暑さかな/空室のいつせいに透く花火かな /逢ひたき人以外とは遇ふ祭かな/烏瓜意識不明の旅をして/など。

有名な藤田湘子の「愛されずして沖遠く泳ぐなり」に、外形はよく似た句である。内実はまるで違うが。作者は攝津幸彦の母。本人が泳いだのか、息子が泳いだのか。いずれにしても、家父長制健在のころの句だと察せられる。なにしろ「太平洋」を泳がせるのだから。その怖さといったら、今どきのパパの比ではなかっただろう。しかし泳法を教えることは、いざというときの生死にかかわる技法。親心がさせた厳しさではある。「怖れ」が行動の動機になることはしばしばある。この句の場合は「父」への「怖れ」ではあるが、その父を動かしていたものも又、愛するものが命を失うことへの「怖れ」であっただろう。そのことに気づくのは、自分が人の子の親になった時。母親は、その両者の気持ちを痛いほど感じながら、ただ見守るしかない。攝津よしこ(1920-)には他に/空也上人口から蝶を生む日あり/珈琲館の硝子の際の冬帽子/つぎの世の扉の色か萍は/手さぐりの昨日につづく蓬原/ほんたうの鬼になりたや洗髪/凍蝶の夢をうかがふ二日月/子の墓へ頬よせてくる吾亦紅/追ひつけず桜吹雪に岨まれて/など。

「逢ひに行く」の「逢ひ」は「あひびき」の「逢ひ」である。もちろん逢いに行くのは男だ。「蟷螂」は、交尾後オスを食べる、あのカマキリである。それが彼女の「胸」!にとまったのだ。これは単なる偶然か、それとも「象徴」なのか?「象徴」だとすると、彼女の男に「逢う」腹積もりに、いささか尋常ならぬ、不穏な影が差す。この句を単純に読めなくなってくる。カマキリの牝の気分で、男に逢いに行こう、というのだから。男を食い物にしてやろうという、女の打算が透けて見える。男にとり入って食事を奢らせるのか、それとも何か高価なものを買わせるのか。げに計算高きは女。男性諸君、ゆめゆめこんな女には引っ掛からぬよう。仙田洋子(1962-)には他に/父の恋翡翠飛んで母の恋/雪渓に蝶くちづけてゐたりけり/冬銀河かくもしづかに子の宿る/さみだるる沖にさびしき鯨かな/雷鳴の真只中で愛しあふ/逢ふときは目をそらさずにマスクとる/踏みならす虹の音階誕生日/鍋釜のみんな仰向け秋日和/など。

人は見かけによらない、と言うけれど、こういう人いますよね。しらっと大胆なことを言ってしまえる人。大勢に迎合しない、我が道を行くタイプ。内に反骨、反権力というマグマ溜りを抱えているのに、普段はそれをおくびにも出さず、だけどいざというときは、自己を主張することを辞さない。冷静沈着だから、物事の本質がよく見えるのかな。人の顔色なんか、もちろん窺わないし、人からシカトされることも、場合によっては辞さない。こういう自我の強いタイプにとって、自分を偽って、周りに合わせ、彼らの反応にびくびくして生きることなど、唾棄すべき生き方なんだろうな。男、女を問わず、自分を見失わない人は、文句なくカッコイイ!と、私も思う。須川洋子(1938-2011)には他に/庭中に牡丹を咲かせ独身なり/身に入むや茸から成る抗癌剤/色悪(いろあく)にちよつとときめき心太/複雑になるのが嫌やでチューリップ/曼珠沙華天からひつぱられて咲く/マイクでも使ひゐるかに牛蛙/大根の未知の断面つぎつぎに/など。

これも私たちの体感に訴えてくる作り。体感感覚は、人間であれば大体共通するから、読者の感覚に訴えるのは、なかなかうまい方法である。成人男性では体重の60パーセントは水。体が傾く、即ちその水も傾くという道理。柔らかく透明な水が、硬く透明なガラスを切る、という風にも読める。あり得ないことが、実はあり得る、それが現実なんだよ、と言っているようだ。須藤 徹(1946-2013)には他に/月明きマンホールより鉄の棒/幾千の傘降る夜の花野かな/遺書を裂くやうに揚羽を殺めけり/空蝉の薄目が怖い般若湯/江ノ島のガソリン臭き猫の恋/スカートの中は国境秋の風/墓参後は畳を運ぶ春の人/蘭鋳死すインターネットに火星盈ち/など。

「双六」は正月の季語。それに「ごとく」が付くので比喩となる。比喩として用いられると、季語はどうしても季感が弱くなるが、正月の出来事として読むことは不可能ではない。多分この双六のアガリは東京だったのだろう。作者は大津に居て、何か用事があって東海道新幹線上りに乗るため、一旦京都に出、京都から新幹線に乗ってみたら、なんのことはない、自分が出てきた大津の方を目指して新幹線は行くではないか!「をり」なので、その戻りの道中での車中詠であることが解る。京都の次の駅は米原で、その途中に大津はあるものの、新幹線の駅がないばかりに、わざわざ京都に出て、Iターンという無駄を強いられる大津市民。現代の文明の利器の恩恵から零れ落ちた人々の悲喜劇を、揶揄を交えて一句に仕立てる、これぞ大人の達観した、俳諧味満載の遊び。鈴木鷹夫(1928-2013)には他に/夜汽車にも春は曙顔洗ふ/吊されし鮟鱇何か着せてやれ/秋空がまだ濡れてゐる水彩画/ヘッドライトに老人浮かぶ聖夜かな/竹皮を脱ぎて乳もなし臍もなし/出雲発最終便の咳の人/魚屋の奥に先代昼寝せり/今生は手足を我慢かたつむり/など。

この句の成功は、作者が「きりこ」という音を発見したことによるところが大きい。そして全部を平仮名表記にすることで、「きりこきりこ」のオノマトペだけでなく、ひらがな全部がオノマトペのような、そんな錯覚さえ生まれた。「きりこ」の「こ」が「ふらここ」の「こ」と、「きりこ」の「き」が「きんぱうげ」の「き」と響き合って、意味的にはほぼ無意味だけれど、韻文としては大成功している。私たちはつい何か「意味のあること」を言わねばという無意識のプレッシャーを自分にかけてしまいがちだけれど、純粋に音のひびきを楽しむ、こんな作り方もあるのだ!それを知っているだけで、ずいぶんと気楽に句も作れるような気がする。鈴木詮子(1924-)には他に/サルビヤを踏みにじりては朱に溺れ/口紅の唇めくれゐて秋の湖/咳に覚む夢好色にして恙なし/年不惑縊死の縄跡芽吹きたり/横転車蜜柑手にして見たるかな/緑蔭のけだるさに倦む喪服妻/雪催ひ骸骨なめる犬の横目/など。

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