KUYOMI

2017年03月

人間界のダイエットブームを明らかに揶揄した句。「何憚らず」太る芋虫に対し、絶えず他者の目を憚り、自分が他者の目にどう映るか、という自意識から逃れられない人間。太っていることで、「自己管理できない人、欲望を制御する点で問題を抱えた人」と否定的に見られ、その人の全人格までがその一点で評価されるような風潮は危険だ。生来遺伝的に太りやすい体質を受け継いでいる人は少なくない。ヒットラーの優性思想が、ユダヤ人や精神障害者など、多くの人を生きるに値しないとして死に追いやったように、肥満を否定的にとらえる価値観は、もしかしたらある種の人間存在を否定するヒットラー的価値観と通底しているかもしれない。自然界は、多様を許す。ナナフシのような痩せっぽっちも、芋虫のような太っちょも、両方分け隔てなく存在させる、それが自然の実相である。俳句をやることの一つの大事な意義は、「自然は果たしでどうなっているのか」を、絶えず私たちに考えさせることだろう。この句は一見単純な発見を詠んだ軽い句のように見えるが、誰もが「何憚らず」自分自身でいれる、そういう「自然」な社会の在り様を示唆して深い。右城暮石(1899-1995)には他に/老人の日といふ嫌な一日過ぐ/隣席を一切無視し毛糸編む/冬浜に生死不明の電線垂る/大阪に出て得心すクリスマス/蜘蛛の圍に蜂大穴をあけて遁ぐ/百姓の手に手に氷菓滴れり/人間に蟻をもらひし蟻地獄/入学の少年母を掴む癖/芒の穂双眼鏡の視野塞ぐ/など。

軽やかな句、人生を楽しむことを知っている、自由人の句だ。読んですぐ、組長のあの顔と口調が浮かぶ。句姿が、そのまま人格そのものの句になっている。「こころぶと」は「心太:ところてん」。あんな頼りないものを食べてさえ、減らず口が「ますます」だとは、恐れ入る。生命力の強さが、ハンパない。元気で、長生きしてほしいと願うばかり。夏井いつき(1957-)には他に/おこりおこし摘みましょ摘みましょ日が暮れる/ギギと鳴きググと応えるぎぎとぐぐ/かたっぱしから壊しげらげら水圏戯/看板のNOVAの四文字野馬の昼/釣り上げてその名もウシノシタ科なり/買うに迷う簡単服のこれとこれ/など。

こんなことも俳句になるんだ~と、「やられた!」感とともに、一読肩の力が抜ける句。こういう作りの句を読むと、ホッとする。ステーキのような句もいいけど、こういうお茶漬け風の句もいいな。希望としては、ピカソのような句。ピンからキリまで「へえ~っ、こんな句も詠むんだ」と、同じ作者が作ったとは思えないような、多様でバラエティに富んだ句が詠めるようになりたい。画家が習作の時期に色々な画家の画風を模写し真似る、その試行錯誤の中から、自分独自の画風を確立する、あの方式で。内田美紗(1936-)には他に/ゆきずりの男と眺む浦島草/霾やまさかの軍歌口に出て/天気図のみな東向く雪だるま/にこにこと人違ひさる春の宵/秋の暮通天閣に跨がれて/七月や録音のわが笑ひ声/リラ冷えや先に届きし第二伸/秋晴や父母なきことにおどろきぬ/など。

「今日は昨日の種明かし」だなんて!、そう捉える作者の感覚がステキだ!確かに毎日は、手品やマジックのよう。昨日知らなかったことを、今日は知れる。毎日が小さな発見と新鮮な驚きの積み重ね。特に生まれたばかりの子供や、子供のような好奇心いっぱいの眼を持った大人には、そうに違いない。毎日を手品を見ているような気分や感覚で、わくわくしながら送れるのは、最高にシアワセな人生だ。昨日は吹かなかった「春一番」が、今日吹いた。今日はダメでも、明日はダメじゃないかもしれない。可能性をいっぱい持った「明日」があるのに、今日一日だけを見て、明日も今日と「同じ」だと決めつけ、すべて知ったつもりになって、簡単に未来を見限り、人生に絶望するなんて、愚の骨頂。アナタはすべてを本当に知っているのか、未来を見たのか、と言ってやりたい。ただの面倒臭がりの言い訳じゃないか、と言ってやりたい。作者の、逞しい生き方、明日に賭ける姿勢に拍手!上田日差子(1961-)には他に/利休忌の白紙にちかき置手紙/遺跡とて穴のいくつか初燕/噴水に逆立ちの水ありにけり/いまどこに桜月夜にゐるといふ/畝ひとつ越え初富士に歩みよる/仙人掌の花の孤独を持ち帰る/ものがたりはじまるやうに梅咲けり/など。

「せりなずな」は春の七草の「せり・なずな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろ」の最初の二つ。「生」=「さみどり」色、「死」=「みどり」色なんだよと、生死を色の違いに置き換えて、色彩的にその本質を衝こうとする斬新な試み。同じ緑でも、生のほうが淡く、死のほうが濃い、という作者の把握が面白い。多分これは七草粥を作る、もしくは食べながら、生(なま)の時には淡かった緑色が、熱に触れた途端、鮮やかな濃い緑に変わったことへの、驚きと発見が句のモチーフになったものだろう。葉っぱの緑色の濃淡は窒素分の多寡によって決まる。多ければ濃く、少なければ淡い。窒素は酸素と結びつきやすく、離乳食に濃い緑色の野菜を食べさせ過ぎると、血液中の酸素が窒素に奪われ、急性の酸欠、所謂チアノーゼを引き起こし、稀に赤ちゃんが死ぬことがある。野菜も色の淡いものの方が自然で安全だとは、自然農法家の常識。化学肥料を多く与えられた野菜は、緑が濃く、見かけは立派だが、限りなく「危ない」野菜なのだ。今井 豊(1962-)には他に/海紅豆靴ぺつたんこぺつたんこ/雲の峰悪意わくわくしてきたり/頭の中に無数の定義木の実落つ/さつきから巣より出てくる蟻ばかり/時の日の夕餉あまりにありあはせ/夕暮れの散水車よりジョン・レノン/冬木立武蔵野市より手紙来る/など。

激しい句だ。「悪女たらむ」とは、「断定」の「たり」の未然形「たら」に、「意志・意向・決意を表す」「む」がついて、今風に訳せば「悪女になってやる」とでもいうような意味だろうか。作者の中に渦巻く破壊願望、善人ぶることへの拒否感、それがこの句に生気を与えている。人間の本質を捉えたければ、こういった本音から目を背けるわけにはいかない。本心に真っ正直であれば、誰もが我儘に生きたいに決まっている。他者の目に自分がどう映るか、絶えず人の顔色を窺い、自分を偽って、他者好みの自分を演じ続けると、人は必ず病む。胃癌にかかるのは圧倒的に「いいひと」だと聞いたことがあるが、そこまでして「いいひと」をやって悔いがないなら、それはその人の自由。傍がとやかく言うことではない。しかしどちらが「純粋」で「正直」かと問われると、他者の思惑など気にせず、あくまでも自分好みの自分であり続ける人だろう。他者に疎まれ嫌われるリスクを冒してまで我が道を行く、その生き方こそ清々しいと、作者は言っているようだ。山田みづえ(1926-2013)には他に/冷蔵庫西瓜もつともなまぐさし/自由が丘の空を載せゆく夏帽子/初詣一度もせずに老いにけり/受験期の母てふ友はみな疎し/柿食ふや不精たのしき女の日/あたたかく猫に慕はれゐて困る/から松を死ねよ枯れよとさるをがせ/など。

なんといってもこの比喩が秀抜。着ている服の色、薄暗がりにひっそり居て、断続的に物音を立てる様子、それらがこの「こほろぎのごと」の一言で、脳内に景がはっきり顕ち上がる。俳句の詩は、この的確な比喩、一言の発見に懸かっていると言っても過言ではない。山田弘子(1934-2010)には他に/タイガースご一行様黴の宿/午後三時酔芙蓉なほゑひもせすん/菠薐草食べてでつかい夢を持て/雪折の谺が森をとび出せる/竹秋や盛衰もなきわが生家/セーターの闇くぐる間に一決す/雪女郎の眉をもらひし程の月/汗の子が三人居候一人/など。

一読、景が顕つ。庭で日曜大工でもしていたのだろう。何気に閉めた釘箱の蓋に草紅葉が挟まった、それを擬人化して「咥へ」と表現することで「詩」になった。「釘箱」のku、「咥へし」のku、「草紅葉」のku、がリフレインされ、韻律にも気を配った楽しい句。糸 大八(1937-2012)には他に/てふてふに四隅明るき紙の箱/大皿の割れてしまつたいい月夜/鳥帰る箪笥長持あとにして/それとなく霞む練習してゐたり/木枯しとまがふ真赤な包装紙/大言海をふたつに割るとつばくらめ/正月の黒く大きな客の靴/身に余るほどに葉の付く夏蜜柑/など。

転んだのは女の子だろう。比喩「花びらのごと」がそれを示唆している。一読、景が浮かぶ。これだけで、晴れの衣装がどんな色のものだったか迄、想像できる。類想を呼びがちな七五三を、こういう切り口から詠んで新鮮。今井千鶴子には他に/この暑いのになぜ道を掘り返す/手袋の守衛たいくつ体操す/昔より美人は汗をかかぬもの/何もかも何故と聞く子と夕焼見る/ドア閉めしとき凩と別れけり/俳諧は犬もくらわず桃青忌/熱いお茶淹れてそれより花火の夜/母の日の花に囲まれゐて淋し/など。

「風邪」と「聖家族」の取り合わせがなんとも面白く、そしておかしい。仲がいい、いつも一緒に行動を共にしている、つまり愛し合ってる家族なんですよ、ということを、こんな洒落た言葉で表現するセンス!俳句はこのドンピシャの「一言」を発見するかが命で、最大のカギ。伊藤白潮(1926-2008)には他に/梅干しの一個口にす落ち込むな/海鞘食べて縄文貌をとり戻す/七人の敵の一人は花粉症/九月はじまる無礼なる電話より/数へられゐたるくつさめ三つまで/はじめから傾ぐ藁塚にて候/アナウンスされ筍の遺失物/広報の隅まで読んで涼新た/など。

「掃除機(時流にマッチするもの)」と「足袋(時流を外れたもの)」の「異種配合」の「取り合わせ」。どこかの旅館のベテランの仲居さんなのだろう。しとやかな動きを強いる和服でありながら、和服とは思えない軽やかさで、いかにもやり慣れた卒のない動きに、作者は感嘆したのだ。この「感動」が句を作らせた。一読、素直に作者の感動が伝わってくるし、仲居さんの体の動き、足の動き、足袋の白さも彷彿とする。どんな小さなものであれ、「感動」が核心にある句は、説得力があるし、印象もストレートで、忘れ難い。泉田秋硯(1926-2014)には他に/百年のグリコ快走さくら咲く/障子貼つて中仙道と紙一重/ポケットの蛇放しけり四時間目/追伸に犬の消息さくら散る/空港の別れその後のソーダ水/斬られ役また出て秋を惜しみけり/手配写真あり熱燗の販売機/吾が息を避け潔癖の初蛍/など。

只事トリビアの「写生」の極致。瑣末と言えば瑣末だが、「誰も目を留めないものに、目を留める」、これも俳句の大事な切り口だ。俳句の凝ったテーマ探しに疲れた頭が、たまにこういう句に出会うと、ほろほろとほぐれて、力んでいた自分を笑いたくなる。作れそうで作れない、脱力感にあふれた、達観の句。村上鬼愁には他に/提灯の似合う家にて黴臭し/寝待ち月一家団子になつて観る/高山に登り見下ろす乞食かな/死螢を蠅の屍と見間違う/白桃に住まえる虫の親子連れ/葬列の百合とは知らず蠅こもる/海老天のあたま残しぬ夏夕焼/白鷺の優雅に歩き鯉盗む/など。

「楽しくなければ、俳句じゃない」とは、組長の口癖だが、読んだ人が多分全員「うふふ」になること請け合い。発想が、とにかくユニーク!一読、声を上げて笑ってしまう。「幼子のようにならなければ、神の国には入れない」とキリストは言ったけれど、ほんと、幼子のような心がないと、こんな発想は出ないよね、と思う。「あめんぼ」と「古鏡」の取り合わせもシャレているし、何より「いつそ」が効いている。作る人も、読む人も思わず笑顔になる、そんな俳句をつくる、作者の心の余裕が眩しい。水内慶太(1943-)には他に/トロ箱の鮟鱇四角に収まりぬ/寒燈のしかもまばらを家郷とふ/秋天に煙突引つ張られてをりぬ/恋猫のこゑ猫ばなれしてきたる/清水湧く星の生死に拘はらず/枇杷の種磁力隠してゐはせぬか/厚揚げに待たれてゐたる帰省かな/など。

一読、景がありありと目に浮かぶ。作者の立ち位置もよくわかる。俳句は、本当に「いつも見ている、何気ない景」でいいんだと思わされる。「何を・主題(テーマ)」ではなく「どのように・方法」が大事とは、俳句もやる稀代の編集者松岡正剛の言葉だが、特別な何かがなければ「感動」できないというわけではない。「おっ、おもしろい!」と一瞬感じたことなら、なんでも俳句になるのだ。正装の句もいいが、こういった普段着の句も捨てがたい。眉村 卓(1934-)には他に/永くバス待ちて案山子の視野の中/腰高の稲架の鮮明すぎる影/ぞんざいに言はれもの買ふ暑気中り/軽口を恥ぢて西日の中帰る/際限もなく銀杏散る明る過ぎる/向日葵が全部目となるさやうなら/水撒きて青鬼通りさうな夕/など。

「畳から柱が立っている」、これがこの句の肝。因果や理屈をわきに置いといて、「見えるまま」を言葉にすると、超現実(スーパーリアル)な異界が立ち上がるという不思議!古舘曹人(1920-2010)には他に/人われを蟷螂と呼ぶ許すまじ/惜春の妻を黒白にして撮す/寝台車に朝刊が来る青田の中/鱈下げて駅の鏡に背を写す/春日おく駅と乞食と事務所(オフィス)の間/蜆売に開かぬ戸そこに犬も濡れ/繍線菊(しもつけ)やあの世へ詫びにゆくつもり/など。

作者は直木賞作家。ハードボイルドなミステリーを書いているせいか、人間のちょっとした気持ちの揺れや、内心の機微を捉えることに長けている。この句も、昼間見舞いに来た友人たちが去った後の名状しがたい気持ちを、フリージアに仮託して吐露している。フリージアは、春の花の中ではダントツ香りが命の花。友人の一人、もしくは共同でお金を出し合って、無聊のいっ時の慰めにと、持ってきたものだろう。消灯の早い病院では、夜がことのほか長い。昼も横臥している身には、電気が消えたからといって、おいそれとは眠りはやってこない。視界を閉ざされた闇の中では、代わりに聴覚、嗅覚が敏感になる。音のしない夜中は、とりわけ嗅覚が敏感になる。ましてや病人である。五感がとりわけ感じ易くなっている。フリージアが最も強く香るのは、もしかしたら真夜中の病室なのかもしれない。結城昌治(1927-1996)には他に/くちなはのくちなは故に打たれをり/朝焼けの溲瓶うつくし持ち去らる/みな寒き顔かも病室賑へど/四月馬鹿つい口癖は死後のこと/春惜しむいのちを惜しむ酒惜しむ/棺を打つ谺はえごの花降らす/逢ひたきは故人ばかりよ秋の風/など。

怖い句だ。一読「どきっ」とする。消したのは「母」という漢字だろうか?それとも「母の顔」だろうか?「戦争」だって、「宇宙」だって、「未来」だって、消しゴム一つあれば、ものの数秒で消してしまえる。消しゴムは子供ならだれでも持っている、日常の文具だ。子どもが潜在的に秘めている力を、侮ってはいけない、とも読める。「鰯雲」のように、弱い立場の子供たちが、うっぷんを抱えながら群なすときに、何か禍々しいことが起きる、そんな不吉な予感を作者は感じたのかもしれない。平井照敏(1931-2003)には他に/秋風にしづかな崖の垂れゐたり/胸中のばらほどはよく咲かざりき/リア王の蟇のどんでん返しかな/心願のいよいよとがる氷柱かな/木下闇抜け人間の闇の中/漱石忌猫に食はしてのち夕餉/目黒過ぎ目白を過ぎぬ年の暮/誕生日午前十時の桐の花/など。

「偶然」の「取り合わせ」の、なんという面白さ!こういう面白い偶然の取り合わせを、ぼ~っとしてると見逃してしまいがち。そこをすかさず捕えるには、常に「俳句の種はないか」と眼を凝らす、貪欲な眼、餓えた眼が求められる。多分家の中にもこういう面白い取り合わせになっている一角があるはず。まずは自分の身辺を探検することから、俳句は始まる。樋口由紀子(1953-)には他に/ラムネ壜牛乳壜と割っていく/たましいに鯛焼きの餡付着する/感情移入牛蒡の煮える匂いして/感情的に残してしまう洋人参/布団から父の頭が出てこない/恋情は三つ折りにするにんじんジュース/ピアノの蓋に姉が映って洪水警報/など。

「平凡」(ケ)と謝肉祭という「アンチ平凡」(ハレ)の取り合わせ。平凡を「赦(ゆる)す」ということは、兄としては、それまで自分の妹が「平凡」過ぎて、赦しがたかった、ということだ。その兄の気持ちを変えたのが「謝肉祭」。「謝肉祭」は別名「カーニバル」ともいう。仮装したり、派手な衣装を着て、何日も飲めや唄えの馬鹿騒ぎをする、アレだ。カソリックの行事で、復活祭前、40日間の断食をするにあたり、思いっきり世俗の楽しみや喜びを味わい尽そうじゃないか、ということで始まった。これには、悪魔がしきりにそそのかす享楽的な生活が実現するものの、神への禁欲によってその誘惑が打ち負かされるというという、象徴劇的な意味もあるらしい。ハメをはずして馬鹿騒ぎに興じる姿は、やっている本人にとっては快感そのものだろうが、しかしその欲望むき出しの、あられもない姿は、傍で観ている者の目を、時に冷ややかにする。美醜の醜がむき出しになるからだ。「極端」に接すると「平凡」が輝きを取り戻す。しかし「平凡」も日常化すると色褪せる。絶えずリフレッシュし、平凡への感謝を取り戻すための作為、それが祭だ。林 桂(1953-)には他に/クレヨンの黄を麦秋のために折る/ボーイソプラノ以後の歳月月見草/夜桜にひとりでゐると耳が散る/学帽でさくらを散らす遊びせり/月光や海の匂ひの花田兄/自転車を落花のもとに集めけり/海に遠く海に向く坂風しぐれ/純愛の友よ下宿にシャツを吊る/など。

「骨壺」・「骨」と「きりぎりす」の斬新な取り合わせ、「死」と「生」、「内」と「外」の対称も意識されている。「骨壺をはみだす骨」、この言葉から想起するのはどんなタイプの人だろう?ラグビーやバスケットなどの体育会系、ガテン系、ブルーカラーの、頭ではなく肉体を駆使してきた、骨太でがっちり筋肉質タイプの漢(おとこ)、多分そうに違いない。優男では、とてもこんな骨は作れないからだ。スカスカの骨では、火葬の途中で砕けてしまうだろう。高熱に耐え、原形をとどめるためには、骨はしっかりと詰まっていなければならない。この骨は、遊びとは無縁の骨だったのだろう。『アリとキリギリス』の「きりぎりす」に遂になれなかった漢の骨なのだ。死んでから「はみだし」ても遅いよ、と暗に言っているようだ。杉山久子(1966-)には他に/傘の柄のつめたしと世にゐつづける/雛納め雛より鼓とりあげて/恋猫といふ曲線の自由自在/ゆふがたのトタンに跳ねて秋の蝉/掃除機は立たせて仕舞ふ鳥雲に/薄氷やちかくの人に書く手紙/卵割る春夕焼のただなかに/人入れて春の柩となりにけり/など。

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