KUYOMI

「故山」は「故郷の山」のこと。「襞」とあるので、のっぺりとした山ではなく、谷筋が深い山なのだろう。日永とはいえ、夕方涼しくなっても戻ってこない「父」を、娘は「探し」に出たのだ。「父」は枝打ちなどの山仕事にでも出たのだろうか。久しぶりの娘の帰省に、故郷の味、谷川筋に生えるミズなどの山菜や山女魚でも採りに行ったのかもしれない。入り慣れた山とはいえ、夏は熊にとって餌が少なく厳しい季節。人を襲うことが多いのも、この季節である。帰りが遅いと心配になるのも無理はない。「おとうさ~ん」と呼ぶ娘の声が聞こえるようだ。政野すず子には他に/水母みな西へ漂う眠りの岸/藪枯らしの花あふれいる真昼の夢/荒れ放題のここがふるさと鬼薊/蝉穴のひとつに呼ばれ目覚めたる/一個二個風の味する吊し柿/子の去りしあとを転がる紙風船/種袋わが身に根付くけむりとや/など。

男には家の外に七人の敵がいる」と言われる。家の外、即ち社会に出れば多くのライバルや敵がいて、様々な気苦労やストレスが絶えないが、それ自体が案外生きる張り合いになっていることも少なくない。定年退職した途端、がくっと生きる張り合いを失くすのが女性より男性に多いのは、それが理由かもしれない。年齢が長じるに従い死別・生別、あるいは人間が丸くなって「敵」の数も自ずから「減って」行くが、それがかならずしも「敵が減って良かった」にならないところが、男心の単純とは言えない微妙なところである。それが季語「冬銀河」から感じられる。「冬」は星が、四季の中でも一番くっきりと美しく見える季節である。天の川銀河も、何の邪魔するものも無くくっきりと見えているが、でも「寒い」のだ。牧石剛明には他に/蟬穴を鴉の次に覗きけり/柔らかき財布でポインセチア買ふ/十薬の花の厚みの曇り空/駆け出して日暮の匂ひ紅葉散る/炎昼のうつらうつらと猫科なり/酒瓶の芯の眩しき夜の蝉/かまくらのうしろの闇へ炭火捨つ/ときをりは癌に昂ぶり冬椿/など。

色は光の波長で決まる。人間に見える色と、他の動物や昆虫に見える色は必ずしも同じではない。人間の眼に見えるのは光の3原色(赤・緑・青)で「赤・橙・黄・緑・青・藍・紫」の七色のグラデーション+白・黒は見えるが、それ以外の赤外線や紫外線は見えない。一方「蜂」は赤が見えず、「橙・黄・緑・青・藍・紫・紫外線」+白・黒が見える。また黒は蜂にとって敵を示す警戒色であり、ミツバチ以外の蜂は色を白・黒で判断するので、黒または黒っぽい服を着ていると蜂に刺される確率が高くなる。紫外線を見る能力は、太陽の位置を知ることで、自分が今いる位置と巣の方角を知るのに役立っている。また橙・黄・緑は見えるといってもおおむね黄色に、青・藍・紫は青っぽく認識しているらしい。従って虫媒花は、南瓜などの黄色系統か、青系統、白系統の花が多い。「黄金の花」は蜂の大好物。そのことが「逢いたる」の「逢」の字に籠められている。「逢う」と「会う」では、同じ会うのでもニュアンスが違う。「逢う」の方は「恋人に逢う」など、何かしら強い想い入れを持っている人に会う時に用いる。作者は「黄金の花」に「逢った」「蜂の声」に、微妙な違い、歓喜の波長を感じ取ったのだ。真木早苗には他に/春光の富士も入り来しロマンスカー/象の鼻のすべり台の子春の昼/炬燵ぬくし奇なる話を交しいて/目を閉じて聴く老鶯の不調かな/そぞろ寒軒を並べて店じまい/己が身に鞭うつており破芭蕉/お仕置の柱失せたり青芒/黄泉からも鬼灯提灯見えますか/など。

「みの虫」は蓑蛾の幼虫、または成虫になっても翅をもたず、蓑の中で一生を送る雌。「痴情」とあるので、おそらく後者だろう。「下弦の月」は「下り月」とも言い、十五夜の月が次第に欠けていく様を言う。漱石の『三四郎』に「可哀想だた惚れたってことよ」とあるように、「恋と哀れは種一つ」。見上げたら丁度「下弦の月」に「ぶらさがって」いるように見えた「みの虫」を、「痴情」=愛ゆえに理性を失った女と見立てたのだ。落ち目の人に恋心を抱く始まりは同情心や憐みだが、それはめったにない事である。「理性的」、言い換えれば計算高い人にとって、ほとんど恋の対象とはならない。しかし「一寸の虫」には、理性や計算とは無縁な故に、「痴情」に走る「五分の魂」がある、そう作者は言いたかったのだろう。前原東作には他に/月の稚児みなうそつきでありにけり/黄葉のひとひらは原罪のまま落とす/変な日の飢えをしずかに犬が掘る/どの古墳も草生え夕陽のように冷たい/死魚浮いて一月の空遠くある/煙草やめないぞ 噴火やむまで 雪に埋まるまで/など。

発見の句。「着ぶくれ」は、自己防衛本能のなせる業である。「声の大きい方につく」も、似たような心理が背後に働いている。人は皆自分が可愛いから、自分が不利にならないよう、もしくは自分に有利になるよう、無意識に損得計算し、自己保身する。冬でも薄着で自分を鍛えている人より、自分を甘やかし、「着ぶくれ」勝ちの人の方が、おそらく保身の意識が強いのではないか。詠まれた御仁が作者なら自嘲句だし、他者を観察して詠んだとすれば、人間心理を突いた批評句になる。俳人は臍曲がりが多く、右と言えば左、白と言えば黒と言いたい人種。声の大きさなんぞにやすやすと負けることはほぼない。おそらく他者を揶揄して詠んだ句なのだろう。前田ゆきおには他に/片足でふとんを探す今朝の秋/握り飯しゃっくり連発木の芽山/玉葱を拔いて噂を気にしない/筍や風のようなるお付き合い/天川村トッキョキョカキョク営林局/曼珠沙華へのへのもへじを知らないか/渓谷の終点で河鹿になっていた/など。

「蝉」が主季語。「熱中症」は、ここでは比喩として使われている。「秋葉原」は有名な電気街、そしてアニメやゲームなど、様々なマニアにとって垂涎の街である。「趣都」「萌えの聖地」などとも言われるように、何かに入れ揚げ、「熱中」する人々を惹きつけてやまない魅力がこの街にはある。近年は世界中から「アキバ」詣での観光客が後を絶たないらしい。「蝉が鳴く」のは蝉の一生の中では、ほんのわずかな時間に過ぎない。その短い間、彼らは次世代に命を繋ぐ、ただそのためだけに費やす。若い時に熱中した趣味を老年に至るまで続ける人もいるが、中には青春の一時の燃焼で終る人もいる。人生の何が幸せと言って、熱中できるもの、夢中になれるものがある、それが一番の幸せである。それさえあれば、人生に退屈することはない。それをとっかかりにして、知識や人脈がどんどん広がっていくからだ。前田保子には他に/三毛猫にじゃまされている春の夢/即身仏みてきて鯛の目玉食う/つぎつぎとピアス落した冬銀河/諍いて駅の夕焼け呼び戻す/なんと透明な林シクラメン投げる/新宿は鍵の無い空春の暮/片手廻しのオルガン秋の陽のまだら/猫起きて家族の揃う小正月/など。

「聴耳」はあるが「効き耳」という言葉はない。「効き目」の「目」を「耳」に置き換えた、おそらく作者の造語だろう。ちなみに「聴耳」は、動物の言葉が解る特殊能力のこと。「うさぎ」には声帯が無い。性格もおとなしく、主食は草や野菜である。鳴き声や糞の臭いがほぼ無いのと、人に懐きやすく、活動サイクルが朝と夕方は活発、昼間は寝ているということで、勤め人がマンションで飼うペットとして人気がある。うさぎの体調や欲求を知るには、飼い主側の「察する」能力が特に求められるが、「効き耳の方開けてます」からは、「うさぎ」の発情に対して、特に「耳」を尖らせている様子が感じられる。「うさぎ」は生後数か月で発情し、季節を問わず一年中発情する。去勢避妊手術は難しいので、ほとんどなされない。発情時、うさぎはそれと解る特殊な行動をとる。後ろ足を床に何度も打ち付ける行為、通称「足ダン」である。その音が、結構近所を憚るほどの音なのだ。集合住宅に住んでいれば、そのための防音対策として、「効き耳」のある素材を敷いてやる必要がある。発情期はまた、うさぎにとって最も体力を消耗する時でもある。健康管理にも手を抜けない。「楽そう」と思って飼い始めた「うさぎ」だが、飼ってみて初めて、「いのち」を預かる大変さ知るのである。前田美智子には他に/太りたる猫を枕に後の月/バナナ買って夜の梅田の安ホテル/握手するだけのつながり雪女/蟻Aに蟻Bが来て耳打ちす/影踏みに誘い出されて蕗のとう/白南風にあらあらと皮膚呼吸かな/ダリア咲くわたし丈夫な女です/など。

「青バナナ」は未熟で硬くて、味もイマイチで、すぐには食べられない。美味しく食べられるようになるには、追熟つまり、時が熟すのを待つしかない。「マニュアル」は「手引き」とか「取扱説明書」という意味だが、「しあわせ」に「マニュアル」があるとしたら、旧約聖書の伝道の書3章が「すべてのことには時がある」と言っているように、「焦らず、その時が来るのを待つ」しかないのだ。バナナが美味しくなった目安は、皮の上に表れるシュガースポットという茶色の点。見かけは悪いが、その点がほぼ皮の半分以上を覆った腐る寸前が、一番香りも甘みも強くなる。人も一朝一夕には「しあわせ」になれない。「しあわせ」は、ひとえに内面の成熟にかかっているからだ。若い時は、外面や自分が他者の目にどう映るかを気にしがちだが、時の経過とともに、大事なのは見てくれではないということに気付くようになる。顔に老人斑がぽつぽつ殖える頃、その時が人間として一番「おいしい」とき、「食える」ときなのである。前田久榮には他に/心太強気弱気を繰り返し/暖房は切って 目先の覚悟する/終日をパントマイムで四月馬鹿/長生きの話でお開き 暑気払い/夫との写真に埋もれていたい 柿紅葉/聞き流す医者の忠告 年の暮れ/湯中りのあと 人中り 花堤/など。

「はくれん」は「白木蓮」のこと。その花の白さを灯した「闇」に「卒塔婆小町」が立っている、というのだ。「卒塔婆小町」は、『古今和歌集』の「花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に」の歌で知られる、才色兼備の美女、小野小町の老いさらばえたなれの果てのこと。三島由紀夫の「近代能楽集」の一つにもなっており、「卒塔婆小町」の名は、墓所の卒都婆に座る小町を見とがめた僧に対し老小町が、仏の慈悲はそんな浅いものではない、と逆に説き伏せたことによる。深草少将の求愛にも容易く靡かず、百夜通ったらあなたを受け入れましょうと約束したが、九十九日通った後少将は死んでしまう。「白木蓮」は錆易く、花びらも九枚、花ことばは「高潔」である。そこから連想が「卒塔婆小町」へ飛んだのかもしれない。前田花野には他に/やわらかくなるまでいたい蛍の夜/憂き世の塵つもる音して春の闇/笹鳴きに福耳一つ吊しおく/生きてしやまん大海鼠噛んでいる/長生きの命打こむ初太鼓/迎え火やかすかに櫂の音のして/秋燕海がそこまで来て光る/絶対の爪立てている空蝉は/など。

今はおもちゃでも何でもお金さえ出せば買えるので、創意工夫、手作りするということが、昔に比べると少なくなったような気がする。昔の子どもは、遊び道具だけでなく、必要なものは創意工夫して、自分の手で作った。結果発明と創作の喜びを体で知り、それがやがて自信、自尊心を培った。問題にぶつかり、そのつどああでもないこうでもないと試行錯誤することで培われた体験智、改良に改良を重ねて巧く行った時の達成感などは、お金では買えない、まさに生きる「喜び」、何ものにも替え難い無形財産である。自分の手で作ったものに、人は愛着を持ちやすい。壊れればメンテナンスして、長く大事に使おうとする。結果物を大事にする。「鬼灯」を「鳴らす」のは誰にでもできるが、「きれいに」鳴らすのは、微妙な加減、コツがいる。雑駁な神経では、おそらく「きれいに」鳴らせないだろう。些細なことでもおろそかにしない、そういう神経の行き届いた人が「家を継」いだのだ。前田典子には他に/狐振り向き別のわたしを見つめをり/さすらふやうに葛切を掬ひけり/包丁に鱗張り付く初しぐれ/原爆忌傘をひらけば骨がある/唄ひ出しさうな花束鳥ぐもり/夏帽子杖に被せて黙祷す/帰省子の凭れてゆきし柱かな/春雪のふかまる夜を骨煮込む/など。

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